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かやのみ日記帳

アニメ、ゲームの感想や思想などを書きます!

ある日ものすごく人間が嫌いになった日があった。そのおかげでわかったこと。

精神論 読書 健康

 

わからないけど、とにかく人間嫌いに

なんというか、凄まじく気分が落ち込んでしまった日がある。別に何かがあったわけじゃない。ただ気分の落ち込みが酷かった。幸いにして休みの日だったからよかったものの、もう布団から一歩も出れないくらい酷かった。体を一歩も動かしたくないし、そもそも考えるのも嫌になってくるぐらいだった。

 

何が原因だったのかはわからない。前日に冷蔵庫の中の賞味期限切れの物をうっかり食べてしまったのか、それとも数日前になんらかの他人からの悪意を受け取っていてそれが刺さったままだったのか。体調不良、風邪の前兆、気圧の変動などなど考えられるが、どうにもならない。もうイライラまでしてきて不調に拍車がかかっていた。ともかく本当にヒドイ一日だった。

 

さて、なぜかはわからないものの本当に人間が大っ嫌いになった日だった。今は別になんともない。普通だ。馴染みの定食屋の店員さんに笑顔でお元気ですか?と聞いたりするぐらいには人好きだ。特段人間なんて滅びればいいというメンヘラ気質、絶望したラスボス的要素はない。あの日だけが特別だったと思いたい。もしかすると自分は体調が悪くなると人間嫌いになるのか。もしかすると本当に風邪をひいていて体を守らなければ…!という防衛本能だったのかもしれないが。

 

人間嫌いになってわかった絶望

さて、人間嫌いになった日を振り返ってみる。なんていうかすごく珍しい精神だったので観察することにしていた。当時はブログを書いてはいなかったのだけれど、こうしてネタとして発掘できたので当時の自分よ、人嫌いな中でよくやってくれたと言いたい。

 

まず感じたのは、大好きだった本を微塵も読みたくなくなるということだ。だって人間が書いているんだもの。人間の主義主張なんて見たくもないし聞きたくもないとまったく読む気がなくなった。ビジネス書なんて完全にダメだ。押しつけがましく見えてしまう。

 

小説はどうだろう。ファンタジーなら…と思ったけどだいたい人間が出てくる。例えエルフとかドラゴンだったとしても書いてる人間の思考にしか見えなくなってしまう。というか人間にわかるように書いてある書物が嫌になった。なんてこった、ここまで人間嫌いをこじらすとは。本当に本が読めなくなるなんてと若干戦慄していた。

 

ただ、今思うと数学書あたりは行けた可能性がある。確認しなかったのは手抜かりだった。物理もありだったかもしれない。まあどのみち元気がなかったのでちゃんと読み解けるとは思えなかったが。

 

さて、しょうがない。本が読めないのならばゲームやインターネットは…人が多すぎる。どうなんだろう、どこでもいっしょとかピクミンあたりならセーフだったかもしれないが、あいにくと所持していなかった。塊魂もありだったかもしれない。人間を大量に巻き込んで惑星ごと夜空のお星さまにする最高のゲームだが、残念ながら所持してなかった。ことごとく自分の持っているゲームは人間ばかり登場するゲームだった。

 

とりあえず家を眺めてみる。うーん、こうしてみると人間が作ったものばっかりだ。人工物と名の付くものばかりである。都会には自然が少ないと言うが、どちらかというと人工物があまりにも多すぎると言ったほうが正しい。そりゃ人間がここまで繁栄しているのだから人工物だって大量に増える。ともあれ人間嫌いだから人工物も嫌いとか言ってる自分がもうどうしようもなく思えてくる。中二病潔癖症ベジタリアンの人間版みたいなものかと。

 

さてここまでくるともう自分自身が嫌になる。私は貝になりたいとか鳥になりたいじゃないけど、我思うゆえに我あり。自分が考えているのが嫌になってくる。自分という人間すら嫌になってくるのだから本当に始末が悪い。ここまでくるともはや寝る以外の選択肢がない。しょうがないので寝支度をして体調がよくなるのを期待した。

 

おわりに

本が好きなのに本を読みたいという気持ちの根本が揺らいだのは初めてだった。小説などに組み込まれている物語というのは人間そのものなのかなあという発見があった。人間嫌いになると本当に生きづらい。目に見えるものの大半が敵になってしまう。自分自身すら敵になってしまうとえらいこっちゃである。

 

幸いにして翌日は極端な腹ペコと体調不良に悩まされた以外に影響はなかった。人生何が起こるかわからないもんだなと思う。

ケータイのおもいで。三行ブログ大好きだったなあ。

読書

特別お題「おもいでのケータイ」

 

はじめてのケータイ

昔ケータイを買うときはもんのすっごい悩んだ。近くのケータイショップのカタログをあらかた貰って帰った覚えがある。キャリアはauだった。家族割が効くとかなんとか。初めて自分で常に携帯するものだ。自分に似合った、ふさわしいモノを選びたくなる。

 

自分にどんな色が似合うのかをよーく考えた。最初はオレンジにしようと思ったが、結局選んだのは黒だった。操作性がいいもの、おしゃれなもの、カメラの画質がいいもの…。いろんな特色があったものの、選んだのは最も武骨そうなデザイン。そのシックさにうっきうきだった。

 

説明書を隅々まで眺めて、ひたすら設定を繰り返す。メールアドレスを自分用に入れ替える。ケータイの待ち受け画面の替え方も、着信音も、とにかくいじり倒した。両親に電話をかけるようにせがんだこともある。ほどなく着信して、対面で喋って浮かれすぎだと笑われた。自分の初めてのケータイに胸がいっぱいだった。

 

買ってから二週間か、一か月くらいの時だったと思う。うっかり落としたときにミニディスプレイが割れてしまったのだ。あまりにもショッキングな事件でずいぶん取り乱した。もちろん翌日にはショップに行ってみたのだが、案外修理料金が高い。それにケータイと離れ離れになるので、結局我慢するしかないということになった。この傷は自分のうっかりによるもので、戒めとしよう。これからはもっと大切にします…とケータイに謝った。

 

インターネット+ケータイ

だんだんケータイに慣れてくるともっといじりたいなという欲がでる。着メロの設定でお気に入りのゲーム音楽を設定したくなり、MIDI形式のものを探し出してケータイに入れるのにものすごくはまったことがある。このサイトのMIDIの質がいいなんて話を友達と話していたこともあった気がする。さすがに自分で作ろうという気持ちにはなれなかったが。当時は着うたのダウンロードは妙に高いこともあって様々なネットの自作MIDIは学生にとって本当に助かる存在だったと思う。

 

そのうちチャリ走とか糸通しが流行った。確かケータイで再生できるのはflash形式だったと思う。.swfのゲームや待ち受けをダウンロードして楽しんでいたのも覚えている。インターネットからダウンロードして、有線でつないで本体に保存するなんて言うちょっとまどろっこしい方法でなんとか携帯代をおさえようと頑張っていた思い出がある。どちらにせよ、ケータイをいじるということのほうが楽しかったのは間違いない。いろいろな方法でカスタマイズすることが、より自分のケータイに対する愛着を深めていった。

 

メールマガジンの思い出

さらにメールマガジンにも登録していた。一番好きだったのは三行ブログ、ボクメーツさんのブログだ。さすがにもう更新停止しているだろうな~と思ってたらまだやってた。バカな…。スゴイ嬉しいんだが、その根気というか継続力に驚嘆する。2004年からなので12年近く続いている…。なんていうかもう…。あまりの大先輩過ぎて腰を抜かします…。すごすぎる…。こういった昔の思い出のサイトっていうのは気がついたらもう見れないということが多くて、今もなお更新されていることに感動すら覚える。infoseek iswebのサービス終了で消えていったサイトたちが懐かしい。そういった意味で今なお本当に更新が続いていることには感謝しかない。

bokumeq.exblog.jp

このなんていうか、日常の感じの三行というゆるさが夕方ぐらいに配信されると非常に心がおだやかになったのを覚えている。少しくすっときて、ほんわかする本当に癒しになるようなブログだと思う。なによりゆったりと綴られているから好きだ。ちょっと肩肘張った気持ちが少しゆったりするのがよかった。

bokumeq.exblog.jp

これですね、みにまぐ。これがホントに三行ブログと親和性が非常に高くてよかった。だって三行だから通信量も少なく、なによりお便り、歳時記のようで毎日が本当に楽しかったなあという思い出です。ちなみに廃刊になってしまい心底落ち込んだものです。ボクメーツさんはTwitterもやっていたみたいですけど、今はつぶやきが途絶えています。やっぱり三行ブログのほうが住み心地がよかったのかもしれません。ちょっと不思議な感じですが、どこか納得がいく気がします。三行ブログはブログでなきゃ味が出ないってことなのかもしれない。

 

このメールマガジンを登録して読むというのはスマートフォンの時代よりもケータイの時代の時がもっともあっていたように思う。今はTwitterやはてぶなどのアプリでガンガン情報が流れてきてしまうからメールは仕事などでしか見なくなってしまった。メールマガジンは新聞のような気分で読んでいた。毎日自分の手元に配達されるイメージだ。けれども今は濁流のようなタイムラインをたらっと読むだけだ。自分が受け取る情報量が多すぎる。

 

なんていうかこういう記事を書いていて、ケータイにまつわる懐かしい思い出が出てきたのは嬉しかった。メールマガジンをケータイで読んでいたのは、なんだかいい時代だったなあなんて思う。

 

…とここまで書いて「おもいでのケータイ」じゃなくて、いつのまにか「ケータイのおもいで」になっていたのはご愛嬌ということで。

 

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一芸に秀でた人たちが非日常を記録したものに感動する

読書 小説

 

小説家になろうでよく読むジャンル、というか唯一読んでるジャンルは「エッセイ」。なんていうか、書き口が洗練されている。そして書き手も読み手もなんだか肥えている。それでいてブログよりも荒れているようには見えないし、そこまで苛烈な書き口が多くない。

 

そしてもれなく全員が読書家であることは間違いない。だからこそ「エッセイ」ジャンルは読書家に向けて書かれているものや小説家あるあるなどが書かれていて非常に面白い。特に気に入っているのは「脳味噌が物理的にぶっ壊れるとこうなるよエッセイ」です。

ncode.syosetu.com

このエッセイの面白さは書き手が小説家であるということに尽きる。主治医に見せるつもりで手記としてまとめていたとのことですが、もうこれだけでフィクション作品のような素晴らしくまとまりきった物語として成立してしまっています。こちらをぐいぐいと読み込ませる魅力に満ちています。映画「ジャッカル」に対して抱いた感想についてあまりにも冷めているような感想を述べているところが、小説家然としていると思うのです。

先生がおっしゃった『子供のように柔軟性を失った感受性』という状態を体験出来たのはむしろ運が良かったのかもしれないと楽観的に捉えることも出来ていますし、ジャッカルに対して怖い物見たさを感じはじめてもいます。
 しかし実際にインターネットで問題のシーンの一部を切り取った画像を見たところ、それだけで当日に感じた『嫌な予感』を含む気持ちの悪さが蘇ってきました。トラウマというのは根深いものなんだなと驚きを感じました。

「体験できたのは運がよかったのかもしれない」「怖いもの見たさ」「トラウマというのは根深いものなんだなと驚き」…ここまで自分の心情を細かく見れるものでしょうか。小説家というのは人間心理について書くのが仕事な部分もあって、自然と自分自身の心の傷の観察にも活かされている、というのはなんともいえないものです。

 

ちなみに該当シーンが気になってNetflixで視聴しました。映像で見ると確かに著者の心の動きに納得できます。これがもしも自分が心を病んでいたとしたら、もしかするとそう感じてしまうかもしれない。改めてこのエッセイの文章力というものに驚嘆しました。

 

これと似た話で非常に好きだったのが研究者の人の自分がどうなっていったのかという体験談。

ibaibabaibai-h.hatenablog.com

まったくもって驚くことに本人にとって素晴らしく冷静に、そしてまったく同じことを繰り返していることに気づけない、というのがすごすぎます。

そのあとどうしたか.まず「これは低血糖による意識障害かもしれない」と自己診断して,とりあえずミスドに入ってドーナツとコーヒーを注文した.なんたる冷静沈着と自分でも思うが,翌日ポケットから,ドーナツの領収書が2枚出てきた.冷静沈着でも記憶に書きこめないので,まったく同じ思考プロセスを繰り返してドーナツを2度食べたわけだ.

こういった話は「博士の愛した数式」だったり「メメント」で有名かもしれません。ですが自分のことをここまで客観かつ冷静に体験談としてまとめられているのはあまりにも貴重です。

まあ行動力があるというか、学者としての好奇心を抑えきれず自分自身で論文のコピーを握りしめてMRIをどうしても撮りたいというのが変態チックである。

そんなことを頼んでいいのかわからなかったが,検査前に技師さんに論文を見せて「この論文の条件(3テスラ、2~3mmのスライス、高b値)で撮像してください」といってみた.「20分間,絶対に動かないでください」とのこと.読影は遠隔のセンターでやるのだが,そこにもファックスで論文を送ってくれた.

かくして,ほとんど奇跡的に発症後62時間のゴールデンタイムに撮像できた.終わってから技師さんが「なんか出ているようですよ」と言っていたが,それ以上は先生でないと聞いてはいけないので我慢した.うっすらなにか光っているのかなあ,と思った.

(中略)

やったああ!と思ったが,よく考えると自分の脳が壊れているのでマズイような.しかし,予後良好らしいということもあって,ついつい文献の結果が再現できた喜びに浸ってしまうのであった.

なんていうか、自分の症状を自分でこれだろうということを調査して、本当にあっているのかを自分で確かめるために奔走するという…まあ学者の鏡とも言えるのかもしれないが無茶しないでください先生と呆れたくなる気持ちもある。

 

これらともう一つ似ているのがアルツハイマーになった画家の話。

karapaia.com

だんだんと自我が崩壊していく様を自分の絵によって表現し続ける。その苦しみはまったく想像できないほどのものでしょう。ですがそれをほんの少しでも絵という媒体から感じ取ることができます。

 

おわりに

何かしらの芸をおさめた人々が非日常に遭遇した際に、自分の持てるスキルをもって何かを表現しようとするというのが素敵に思えます。それは誰にでもできることではないし、なんだかエネルギーに満ちているように感じます。

 

あまりにも非日常的で一般の人々では太刀打ちできないような怪異に対して、己が武器で決死の覚悟で飛び込んでいくようなそんな精神に憧れます。表現に優れた人間というのは、そういった不確かなものや他者が想像できないようなものに対して、果敢に挑んでいくものなのかもしれません。

 

 

 

「わからないことがあれば聞いてください」じゃなくて「確認したいことはありますか」と言ってみる。

勉強

 

大学の授業補助をしていた頃に考えていたこと。それは本当に困っている人から質問されない事だった。学生にはいろいろタイプがあると思うが、真面目でやる気のあるタイプとかふざけた態度のタイプ、そして無言タイプについて自分のとっていたスタンスを紹介する。

 

真面目タイプは安心してサポートに徹する

だいたい自分の中で答えを持っていて、それを確かめるために質問するタイプだ。こういう場合は若干不安があるのでお墨付きをもらいたいという気持ちなのかな?と思いつつ、確かめ方を伝授したりする。結局合っていることを教えてしまうと考えるのをやめちゃったりするので、そこはグッと堪える。

 

だいたい優秀なタイプなので放っておいても自分で進んでくれる。このタイプの質問に対して安易に答えずに、むしろもっと深い落とし穴に誘導してあげると喜んで這い上がってくれる。それに先へと進むリーダータイプの場合は周囲の先生役を務めてもらうことで労力が減るし、近場で仁王立ちして「さすがだ…」とか「我らより教え方がうまい…」とつぶやいているとより頑張ってくれる。まあある程度冗談だが、教えたほうが身に着けやすかったりする。間違ってたらきちんとサポートするという監督的立場が非常にやりやすい。ともかく質問する/質問されるという立場から一歩抜きんでたタイプなので置いておく。

 

おふざけタイプは寝ている間は事務に徹する。でも絶対に見捨てない

ふざけた態度は「答え教えて下さい」とか「今なんて言ってました?」とかなので、非常に簡単でストレスがたまらなくていい。答えは教えられないし、なんて言ってたかは周りに聞いてねで済む。連絡事項を聞いてないのはまあどうでもいいので教えてあげることもある。だいたい本人たちも単位の為とかでやる気がないので放置してあげる。点取る方法教えてくださいとストレートに聞かれたら、うん勉強しようねで済むし対応が本当に楽だ。彼らは友人ネットワークが優秀である為にだらけていても大丈夫という舐め切った態度をとっているので、こちらも真面目に取り合わなくてよいと思う。

 

ただ、たまに覚醒することがあってそれを見るのは本当に嬉しくてしょうがない。一転して猛烈に真面目に、本当に楽しそうにたった一人でも突き進む。友人たちがサボったりいなくなっても猛然と課題に取り組みだす。教師の真似事的な立場としては本当に嬉しい。

 

ある時、真面目に答えてくれないだろうなーとかネタとして質問してきただろう内容に対して本当に面白い質問だったので、こちらも本気+圧倒的熱量で答えたところ、目を見開いてスゲー…と呟き、じゃあこれもこれも、こういうことだったんッスカ!?とか聞いてくるので、左様…と答えると改めて感動+反省したらしく、それ以来めちゃくちゃ真面目に授業を聞き、真面目な質問ばかりしてくる非常に優秀な学生へと変貌した。

 

というかなんか懐かれたらしくガンガン手を挙げるようになった。教授にはえらい懐かれたね…と笑われてしまったが、まあ成績が見違えるようによくなってそのグループにも活気が満ちたのでよかったなと思う。こういう不真面目で寝てたりするタイプは基本的に質問に対してテンプレート的対応を心がける。授業内容についての質問の際には相手の求める範囲だけで答えることにしている。ただ絶対に質問の間口を閉ざすような態度はとらない。バカにしたり嫌味を言ったりしない。態度を咎めることもしない。そういうのは講義の主役の責任でもあるので、まあそっとしておく。自分の感情を籠めないように事務的な態度で接することに徹する。どうせ起きていても寝ているようなものなので、何かしら目が覚めるきっかけがあるまでは踏み込みすぎないようにしている。

 

無言タイプはこちらから踏み込んで承認してしまう

さて、一番困ってしまうのは質問せずに自分でうーん…となっていて進まない人たちだ。こういった人々に「困ったことやわからなくなったらすぐ聞いてね☆」といっても「はいっ」と言って後は静寂のまま…という感じだ。正直まったくといっていいほど効果がない。

 

こういうタイプは自分が属しているからわかるのだが、仲間に恵まれていないタイプが多い。基本的にすべての講義で同じようなことが発生していると思っていい。自力で解かねば生きられぬタイプなので質問する回路がさび付いていることが多い。他人というものに遠慮してしまうというのもある。それにわかってないところがわかってなかったりして時間がかかっているので、聞いてみて教えてくれる人を自分ひとりで占領するのはあまりにも悪目立ちしてしまう。そういった目立ったことをするのは嫌なタイプかもしれない。もしくはお店に行って「お困りですか?」といわれると「やめてくれー!」と絶叫して逃げたくなるタイプかもしれない。私に構わないでうざいからタイプは構うとこちらも傷つくのでつらいところだ。

 

こういった人々に対して声掛けをする際には「わからないところありますか?」とか「何でも聞いてください」じゃなくて「確認したいことはありますか?」と聞くと良い…という話をネット上のどこかで見かけたことがある。そうすると自然と学生が効きやすくなって挙手率が上がったとのことだった。

 

だいたいこういった「なんでも聞いてください」系はテンプレート対応と化しているためありがたみがなく空虚にしか聞こえないという問題がある。店員さんの言う「またのご来店お待ちしてます」ぐらい残念ながら耳に残らないし、心に響かない。更にはなんでも聞いていいって言ったのに忙しくて断られたり雑に対応されたり馬鹿にされたり嫌味を言われたりとまあ裏切られたと感じてしまう経験もよくある。

 

それにめげず頑張ってくれたまえ…というのはさすがに努力を相手に要求しすぎてるなあと思うので、質問の時の障壁を下げるべく、確認したいところはありますか?というと楽になる。質問ではなく確認ならば、「わからないから」→「聞く」ではなくて「確かめたいから」に変わるところがミソかもしれない。

 

そこから一歩推し進めて学生に過度な期待をもったりせずに、むしろ学生の感情の省エネに貢献しようと思ったことがある。もう先にこちらから「いやもう全然わからないよね?」と思いっきりフライングして聞いてしまうのだ。そうするとちょっと苦笑いして「いやまあ…」「難しくない?」「難しいです」「だよね。どんな感じ?」となる。

 

そして質問の際に思いっきり学生の評価を下げてしまっているので、きっちりと上げておく。「大丈夫、全然できてる、みんな躓くところだし、たいしたことない」とか。まあなれなれしくてオススメはしないものの、心理的な障壁を取り払うのには効果的だ。そしてこういった学生の不出来に対してきっちりと許容されますよ、承認されますよ、こんな質問でもばっちり大丈夫ですよと不安にさせず、むしろよい好例として取り扱うことでそのグループ全体からの質問頻度を向上させることができる。

 

そしてなによりなるべくひとりぼっちにさせないことだ。なぜか隣に座っている人同士がまったく同じところで唸っていることが多い。そういったときにむしろ自分で答えずに橋渡しする。この問題ってどう?解けた?みたいな感じで会話を促す。正直おせっかいすぎて胃が痛くなるのだが、それでも少し自分をダシにして少し笑いをとりつつ和やかに、いっしょに課題を解く仲間であることを認知させる。もちろん個人で解くものも多いが、それでも困ったときに気軽に聞けるのは同期の人間である。それにそうしたほうがよっぽど両者の教育のためになる。悩みを共有したほうが友情は育まれやすい。

 

こうしてひとりぼっちを防止してちょっとした連帯感を出してあげることで質問するときに自分ひとりで占有しているわけではなく、グループとして召喚したという形になりやすいので一人当たりの召喚コストが減るというのが大きいんじゃないかと思う。そしてこの輪が広がることによって講義全体が非常に聞きやすい環境になって自然といい学習効果へとつながるのではと考えたりしていた。

 

おわりに

質問してくださいと言ったのに質問に来ないのはいったいどういうこと!?となることはあるとは思います。そこから一歩進んでみて、一気に懐に入って承認するというのもありますよ、という紹介です。まあ禁じ手のようなものなので万人受けしないものだと思いますが。

 

ともかく学生が質問にこないのは寂しいものです。より質問しやすいような環境づくりの様々な技術が幅広く共有されるといいなあと思います。

 

 

昔、高校の物理で感動したドップラー効果の話。自分で手に入れた真理と血肉化について。

精神論 読書 勉強

 

ドップラー効果をご存知でしょうか。救急車が遠くからやってきて、目の前を通り過ぎる際に、音が変化する現象が有名な例です。こちらに音の発生源が近づく場合、音が高くなり遠ざかるにつれて低くなる現象です。

 

高校の物理で学んだこの現象をある日、なんとなく眺めていて暇だからと遊んでいたら非常に面白い体験をしました。私は物理が尋常じゃなく苦手でしたが、自分でつかんだこの現象への理解は一生忘れないだろうと確信しています

 

なぜならこれはショーペンハウエルが読書についてで述べている”真理”に近いものだと思うためです。いやいや真理なんてさすがにおこがましいかもしれません。けれども自分の中で血肉として生きた知識という意味で”自分の中の真理”ということにしたいと思います。

 

ドップラー効果基礎

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身近でよく耳にする現象です。高校ではこの現象を波について学ぶ際に紹介されます。テストで解いたこともあると思います。ひとまずここでは難しい公式を出すのはやめておきましょう。

 

ドップラー効果の肝になるのは、波の発生源が移動すると移動方向に波が密になり、反対方向は疎になるという所です。移動しない場合は同心円状に広がっていくため、どこから聞いても音の高さは変わりません。しかし移動によって疎・密の部分ができることで音の高さが変化するのです。波が密集するということは周波数が高いことを示し、波が疎であるということは周波数が低いことを示します。

 

自分で疑問に思ったことを試して感動

ドップラー効果3 ■わかりやすい高校物理の部屋■

上記のサイトの絵のほうがきれいですが、一応自分でも描いてみました。絵心はない

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波の発生源が動かない場合、同心円状に波が広がってゆきます。

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しかし波の発生源が動いた場合、波の分布に偏りが発生し、疎密が生まれます。これがドップラー効果ですね。

 

さて、ここまで高校生の頃に描いてみて、ふと疑問に思ったのです。この前方の密度を詰め込んだらどうなるのかな?と。敷き詰めれば敷き詰めるほど密の部分が厚くなっていきます。なんだか膜のように見えてくるのです。壁かもしれません。なにかに阻まれているかのように…。

 

そこでハッと気付きました。これって、いわゆる音速の壁じゃないか!?と。超音速の航空機がマッハを超える際にシュバッと三角錐の雲のようなものが見れたり、衝撃波・爆音を伴います。いわゆるベイパーコーンとかソニックブームです。

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これをなんとなくゲームで予習していたので非常に興奮しました。まさか…ひょっとするとドップラー効果から導けるんじゃないか!?と。

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波の発生源が、波が進むスピードよりも速く移動した際に接線が引けるようになります。これがあの空気の壁じゃないか!と非常に興奮しました。そして音速340m/s。この速さを超えれば音の壁を破れる。それがマッハの世界と結びつくんだ!ととんでもなく興奮していました。自分ひとりでここまで繋げられたこと、たどりついたことに感動したのです。

 

厳密に解説しだすと大気圧とかいろいろ関係して複雑になってしまい、専門家からも全然ちげーよと言われそうな気もしますが、自分にとってはこの理解が非常に楽しかったのです

 

自分がなんとなく疑問に思って、なんとなく発生源が波の速度を超えられたらどうなる?ということを実験し、その結果から驚くような事実に到達できた喜びが私にとって最も重要な体験でした。

 

自分で掴んだ真理の重要性

rodori.hatenablog.com

だれでも次のような悔いに悩まされたことがあるかもしれない。それはすなわちせっかく自ら思索を続け、その結果を次第にまとめてようやく探り出した一つの真理、 一つの洞察も、他人の著わした本をのぞきさえすれば、みごとに完成した形でその中におさめられていたかもしれないという悔いである。けれども自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。-ショーペンハウアー『読書について』P9

まあ思索とまで驕ることはできないかもしれませんが、少なくとも教科書に書いてあること、その文字や公式を暗記することでテストで点は取れます。しかしながら、自分で獲得したと感じられる体験をすること。それが自分の中で血肉化することだと思うのです。

 

kayanomi.hatenablog.com

自分で引用するのもなんですが、先日のエントリに書いた戦術本が何故自分にとって記憶に残りづらいのか、そして実感がわかないのか、応用が利かないのかという話にもつながります。もしも自分の中で高精度なシミュレータを脳内で展開できるとしたらこういったゲームは必要ないと思います。ゲームでやるよりもよっぽど状況やパラメータを変更して思索にはげむことができると思います。

 

しかしゲームなどの強烈な直接的体験をもとに感じた自分の印象をうまく言語化し、それを消化することで血肉化できるだろうと考えているのです。自分の中で生じた不確かな体験をもとに思索することで、ただの活字だったものが急速に体の感覚へとしみこんでいくと思うのです。故人や描かれる情景に思いを巡らすような、自らの感情を活字で得た知識の中に自分で含めるような作業が血肉化には必要ではないかと思うのです。

 

おわりに

思うに知識はただ単体では機能しないと思うのです。それではただの点に過ぎない。そしてそれを繋げることが自分の中で自由にできない限り血肉化されていない、教養と化していない、知恵と化していないと思います。ある意味ネットワークのようなものです。インデックスされていない知識はどこからも参照されません。タグ付けが少ないほど参照される確率は低くなり、検索性が落ちます。

 

この暗記しただけや本で読んだだけの知識を血肉化する作業こそがシミュレーション、実験だと思うのです。そこにある知識という点を動かして、自分の中で衝突させる作業です。様々な自分の内側の断片化した知識や血肉に対して化学反応させるような所業です。新しいタグ付けや重要度を自分でつける作業のようなものです。ラベリング…とは少し違う重みづけのようなものでしょうか。

 

例えばこの記事ですが、ドップラー効果ショーペンハウエルの読書についてが結びついています。自分の中で経験したドップラー効果に対する自分の中で真理を掴んだように感じた体験と読書について書かれた文章の中の断片と共鳴したというわけです。そしてMount & Bladeで体験した騎兵の恐ろしさの理解もまた自分の中で真理に触れたのでは、と思っていたからこそ繋がるのです。

 

こうした自分の中で形成され同じようなタグのついている物同士が日常で見つけた些細なことや突然思い出したことに反応して掘り起こされます。その時に感じた体験や感動を少し伝えたいなという気持ちと自分の中で再度整理をしたい思いもあり、私はこんな記事を書いているわけです。…あんまりうまく言語化できていないようなまとまっていない記事ですが、それは自分がまだ未熟だという証左でもあります。これからも記事を綴って自分の内側を言語化することで、より深い思索を楽しみつつできればいいなと思います。