かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

いつも下を見てたけど、上を見るようになった日。地面と天井の違いを想う。

 

比喩じゃなくて、物理的に

子どもの頃は歩くときは地面を見ていた気がする。見下ろす形で世界を見ていた。天井を視界に入れないような歩き方をしていたと思う。人の顔を見るのが恥ずかしかったし、自分に自信がなかったからか。ただ気分が落ち込んでいたり卑屈になっていたわけではない。ただ苦手だっただけだし、なによりも上を見て歩くという発想がなかった。今まで自分が歩いてきた方法に慣れていたんだと思う。

そんな自分だったけど、ある時誰かに「天上も見て生活しなよ、人生の半分損してるよ」と言われたように思う。なるほど、確かにしたばかり見て生きていたら物理的に得られる情報量が半分だ。それに地面を詳細にみているわけでもない。風景というものをもう少し楽しむべきなのかなと思った。

 

それから学校で廊下の天井を見ながら歩きだした。ひょっとすると変な奴に見られていたのかもしれないし、下を見てた人間が普通の人間と同じ目線に立っただけなのかもしれない。それだけでもほんの少し変わった気がする。天井にはスピーカーがあって、シミがあって。それから窓も思ったよりも大きかった。学校の屋上が見えるのがわかる。その上には青空と雲だってあった。

いつもは中庭を見下ろしていただけだったけれど、空には誰もいないんだなあと感慨にふけっていた気がする。空は静かで、人がいなくて澄んでいるということに初めて気づいたのかもしれない。今まで空なんて天気のことや暑さを気にしていただけだったけれど、地上と比較した時に面白みが出てきた。地面はあまり変化がないけれど、空はくるくる色が変わっていく。

 

そのうち修学旅行があって、神社仏閣みたいな定番スポットに行った時も最初に見たのはやっぱり天井だった。みんな仏像とか中の注目を浴びるところに釘付けになっていたけれど、じぃーと天井を見つめているのが好きだった。こうして天井を意識的に入れて生活していると気付いたことがある。自分を風景の中に入れられている気がした。ちょっとした俯瞰の目線だ。もっと大きく自分を見ることができるようになったんだと思う。

それから天井を見上げて、全体をもっと大きくとらえようと生活しているとなんていうか生活感、空気感や昔そこにいた人々の気持ちに思いを馳せるようになっていった。地面は今もなお多くの人が足跡をどたばた付けているけれど、天井は誰にも侵食されていない気がした。どこまでも人を見続けているのが天井なんじゃないか。

 

おわりに

まあ天井は人を守るためだとか建物として存在するためにあるもの。地面と同じくらいやっぱり価値があるものだ。それを見ないで、意識しないで生活するのは確かに人生損していたなと子供の頃に学べたのはとても良かったと思う。今なお旅行や観光地でのスポットを巡るときは、ひとつ天井を見上げてニコニコしている。