かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

英語をカタカナにすると失われてしまうもの

 

英語をカタカナにするとわかりやすいような気もするが、実は理解をより遠ざけてしまっているのではと強く思うのだ。英語そのものには形がある。日本人は漢字をみてなんとなく意味を推測することができる。そのおかげでなんとなく中国語も読めそうな気持ちになるわけだ。

 

食べ物なんかは顕著で”焼”と見ればとりあえず火が通っていると推測することができる。漢字の”火”が入っているからだ。魚というものが入っていればそれは魚介類であろうと推測できる。が、寿司屋のよくわからない魚偏の漢字シリーズは区別がつかないだろう。だが、その由来を知ると面白いのは間違いない。

 

同じように英語にも意味を捉えることができる。接頭辞とか語根とかをいくつか知ることで印象を学ぶことができる。例えば pre とついていたなら 前とか以前とか そういった印象を持てばいい。 

 

なんとなく pre でなにかないかと思いついたのがわかりにくいのだが prelude だとどうだろう。調べてみると pre + lude で lude はラテン語で to play 的な意味らしい。なので "前に演奏する" 前奏曲という意味だそうだ。なんとなく前的な雰囲気がわかるだろうか。

 

これがプレリュードと書かれると意味が失われるだろう。カタカナにはもとの意味が含まれておらず、読み方しかないようなものだからだ。そこから誤解だとか和製英語なんていうわけのわからないものも生まれるのだろう。

 

カラオケは英語発祥ではなく 空 + オーケストラの略だそうだが、英語とカタカナ語の区別がつかない人にとっては誤解してもしょうがないように思う。だからなるべくなら英語の表現そのものを残すような表記にしたほうが良いように思う。

 

そこらへんはカタカナ語でわかった気持ちになるように感じる雰囲気がよくないなあと常々思っている。