かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

絵画にまつわる苦い思い出と勝手な評価とブログの理由。

 

 

今回はとてもネガティブでもあり、トラウマでもあり。

でも前に一歩進もうという心でもあります。

 

自分がブログをなぜ書こうとしているのか。

そして何を表現しようとするのかを書きました。

 

 

自分のこころを描けという課題

自分にとっての明確なトラウマは、学校の美術の授業だった。
たしか自分の内面を描け、という課題だった。
みんなとても恥ずかしがった覚えがある。

 

そしてみんな悩んだ。心ってなんだろう。内面って何だろう。
それはどんな色なのか?形なのか?気持ちはどう表すんだろう。

みんな、だれがどんなものを描くのか興味津々で、そして焦っていた。
自分の心をさらすことがどんなに恐ろしいか!気づいていたんだろう。
だからみんなけん制しつつ、おそるおそるだった。

 

美術教師はピシャリと、自分の心は自分で見て描け、という。その通りだ。
ただ、人の反応を気にして描く人が多いのは面白いだろう。
その人にとってその心は、人の反応次第ってことなんだから。

 

書いていてつらいが、自分こそ最大に人を恐れていた
自分の心なんてなかった。描けるものもなかった。
人が怖いのに、自分の心なんて描けるか?

 

絵だって下手だった。何をやってもうまくいかないと信じていた。人よりずっと劣っていると信じていた。友達も少なかった。劣等感と沈んだ心ばかりだった。

 

実際、いつまでたっても、何を描いていいかもわからない自分はビリだった。

女の子は女の子同士キャピキャピしつつ、互いを厳しい目でけん制しあっている。
まるで自分自身の心を守るために戦うように、お互いがぶつかり合っていた。

 

男の子は男の子で強い奴に憧れたり、人気者に憧れていたり。酷く単純なやつも多かった。将来野球選手になるなら、バットとグローブ。サッカーならサッカーボール。
デジモン好きならデジモン。わかりやすい自分の心を持っていたのかもしれない。

 

 

 

塗りつぶされた自分のこころ

とにかく描けなかった。自分の心がわからなかった。自分が何かわからない。何を描いていいのかわからない。正解がわからない。正しいことがわからない。バカにされない方法がわからない。

 

 

そんな自分を見かねた先生が、思いっきり書けばいいんだよと、筆をとってしまった。

 

そして思いっきり、黒い絵の具を混ぜてぶちまけてしまった。

 

 

ぼくのこころはまっくろにそまってしまった。

 

 

ホントは小さく小さく、なんとなく好きなものとか、好きな色とか。もしくは白っぽいのも自分でいいのかな、と思って。小さいのも肩身が狭い自分の心なんだなあと苦笑いしていたのに。

 

自分の心を認めてもらえなかったような、悲しみがあった。

 

そこからはただぐっちゃぐっちゃにやった。ショックだった。ぐちゃぐちゃにしちゃえ。もうどうでもいい。ただぐちゃぐちゃやった。

 

とにかく大きくばってんにして、まっくろにぐちゃぐちゃ。大きく描けなかった自分の心を塗りつぶすように描いた。

 

やればやるだけ派手になって、教室でもっとも異質な絵になっていった。次第に話題にもなった。

 

「もっとおとなしい人だと思っていたのに意外」

「よっぽど心に闇があるに違いない、病んでいるんだ、恨んでいるんだ、暗い奴」

 

どんどんレッテルが増えていって、どんどん色が増えていって、どんどんぐちゃぐちゃにして。自分ですら何を描いてるのかわからなくなった。ただ、黒い絵の具が全体に広がって、消せなくなってしまった。それだけだった。

 

酷い絵だった。酷い心だった。醜い絵だった。醜い心になってしまった。
そんなどうしようもない絵を作っていた。

 

 

とてもわかりやすい、解釈しやすい、価値のない絵

絵を描き終えた後に、教室中のみんなの心を見て回る品評会が開催された。

なかなか悪趣味だ。人の心の批判をするのだろうか?

 

君の心はここが変だねって?友情に亀裂が入ったら、なんて思うといえないだろう。

本当に仲が良ければいけるのかもしれないが、腹の探り合いをする仲なら、そりゃもう恐ろしいだろう。

 

そんな人々の中で最も素晴らしい絵だったのが、ぼくのひどい絵だった。

なにせ、黒くて、渦巻いていて。何を描いてるのか自分でもわからない絵だった。

 

だからこそ、無遠慮に、ぶしつけに。ただ適当に、好き勝手解釈してぶつければいい。

そういう題材にうってつけな絵だった。何の意味もない絵だからこそ。

どうしようもなく好き勝手楽しく言えてしまう絵だった。

 

「不気味でおそろしい何かを感じる」「ここらへんに悲しさがある気がする」

「とても暗い絵だ」「不安を描きたかったんじゃないか」

「赤と青が多い、ここが希望なのかもしれない」

 

そのすべての感想が間違っていて、そして自分ですら何も言えない絵だった。

なにせ、無意味な絵なのだから。自分の心はいったいなんなんだ。

自分ですらまったく意味の分からない。

 

ただ、無意味にちやほやされるのは面白かった。それが嘲笑や蔑みでも。

それでも話題にならないよりも、注目されたほうが嬉しかった。

例えそうだとしても、無視されるよりも。

 

 

ただ教師だけは本当に見抜いていた。全部見ていたから。

だから子供たちに、「もっと大事なものを見よう」「もっと違う絵を見よう」

なんて繰り返し繰り返し言っていた。言いたかったんだろう。

 

あの絵に価値なんてないんだよって。

 

それがやっぱりつらかった。わかってはいたけど、自分の心に価値がないのかな、と思ってしまうから。

 

ほんとうに価値のある絵とココロ

さて、本当のトラウマはここからだ。

品評会も終わり、掲示も終わり、持ち帰る日。たぶん放課後で、めずらしく遅く帰ろうとした日。

 

教室に行くと、たしか担任と美術の先生が一つの絵を見てしきりに話していた。

すごい絵だ、心の描写が素晴らしい、こんな才能があったなんて。

そんなことを口々に褒め囃していた。

 

内心ちょっと自分のことなのかな?なんて期待もしていた。

だってあれだけクラスの連中に言われていたんだ。話題の中心の絵だぞ?

 

 

そう思いつつ、先生たちの見ている絵をこっそりと覗いた。

 

 

その絵はもっともクラスで浮いてたやつの絵だった。だれも注目しなかった絵。

だれも感想をつけなかった絵。面白みのない絵。

 

それは、自分にとってわからない絵だった。深いのか?これが?

大人の感性でしかわからないのか。自分たちが子供なのか。

じゃあ描いた奴は、才能があるのか。そういうことなのか。

 

 

それで自分のすべての思い上がりを恥じた。

そうだった。自分の絵は、心は、何にもわからないでぐちゃぐちゃにしてしまった。

ただの落書き以下だったんだと。だれにも理解されてなかったのは自分のほうだった。

 

だれにも注目されてなかったのは、自分のほうだった。

ただ、都合よく感想を言うのによかっただけの絵。

それだけだった。

 

それから家に帰って、母親に見せる前に全て折りたたんで、ゴミ箱に入れた。

何も見せたくなかった。誰にも褒められたくなんてなかった。

全てウソだったから。何を言っても慰め以下だった。

 

それから何十年後の文章

それからというもの、自分の心を開くなんてことにトラウマがある。

自分の内面の描写なんて、ほとほと苦しい。

人づきあいも、心を打ち明けることも、心を飾らないことも苦手になってしまった。

 

 

どうしても本心を描けなかったこと。

伝えられなかったことが後悔として残っています。

 

 

それでも、なんとかしたい。あの時の後悔を無駄にはしたくない。

一歩ずつ前に進みたい。

どうにかして、自分の内面をなんとか外に出したい。

 

そういう苦しみが、どうにかして自分を伝えたいという気持ちになって、

そしてこのブログを書くに至っています。

 

人よりも歩くスピードが遅いのかもしれませんが。

それでも自分は、自分の大切な気持ちを少しずつ書いていきたいと思います。