かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

学生が学生の研究を助けるべきか?答えはNoだ。

 

自分にとっての手痛い経験をもう一つ語ろうと思う。それは研究が進まなくて困っている人間を助けるべきか?ということだ。もしかすると留年している人もいるかもしれない。その人が困っている時に助けるべきか。これに対する私の回答は断じてNoだ他人の研究を肩代わりしてはいけない。それは学生の身分を超えているからだ。

 

もちろん簡単なことならいい。機器の使い方について説明する、どういったものが参考資料になるかを教えるなどだ。これらは相互扶助されるべきものだ。なぜそういいきれるのか。それは学生たちが生存のために身に着けたサバイバルテクニックのようなものだからだ。研究そのものに直接は関わらないが、その進め方や方向性に関わるものといってもいいかもしれない。こまごまとした研究導入とかそういうものだ。準備にかかわるもの。そういったものは互いに共有を積極的にするべきだと思う。

 

また、学生同士で研究を互いに相談するのはいい。結果に対して疑念を互いに抱いて議論したり、協力してことにあたるのもいいだろう。それらは相談だったり、共闘といえるものだ。同じレベルの者同士が肩を並べるのは構わない。それは本当に楽しくそして相乗効果すらもたらすだろう。研究室生活の醍醐味ともいえるかもしれない。

 

他人のレベル上げのための雑魚モンスターを狩るな

だが、本気で研究が進まない、わからない、どう進めていいかわからない人間に対して気軽に研究を肩代わりしてはいけないと思う。それはもちろん成長の機会を奪ってしまうからというのもある。親切にしたいと思っている時に、その人が味わう失敗こそが成長になるなんて考えられないからだ。同じように転ぶ人を見るのは忍びないと思うのも当然である。愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶという。だが、ただ歴史を教えたところで愚者は賢者になるわけではないのだ。愚者はまず、経験から学んだのちに賢者へと徐々に成長する。誰しもがそうだ。失敗からすべては始まる。

 

もう一つ、他人の研究を肩代わりすることで発生する損失は何か。それは相手に対して見えない負債を作ってしまうことだ。最初のうちは簡単にできるし、大した悩みではないかもしれない。むしろ自分の研究よりもずっと手前ならば、素晴らしく進捗がでることだろう。なぜか他人の研究は蜜の味がするものだ。どうにも自分自身の安全が確保される第三者的立場だと、頭が非常に冷静に働いてくれる効果がある。更に相手も感謝し、そしてわかった!と言って進捗を持ち帰り満足げに去っていくだろう。それが一回で済むなら。

 

しかし、調子に乗っていると徐々に相談に乗らなければならない回数が増えることになる。これはようするに、ツケなのだ。他人が苦労するべきポイントを自分が横取りしたせいでレベルが足りずにすぐ挫折してしまう。例えるなら自分のレベルが高いから、他人のゲームの中に入り込み序盤の敵を狩りつくすようなものだ。そうなれば相手は成長の糧もなく、次のステージでは即座にゲームオーバー。序盤の敵の倒し方を質問されても答えられないし、倒せないままだ。実戦経験がないのである。親切心が仇になるとはこういうことだ。

 

さらにいうなら、溺れる者は藁をも掴む、窮鼠猫を噛む、死なばもろとも…。一度助けてあげようと仏心を出して手伝うとロックオンされることになる。本人にその気がなくても困ったときの泣きつくリストの上位に入ってしまう。あの時助けてくれたのに忙しいからって見捨てるのか!この人でなし!となることもある。そこまで言わなくても、自分が助けたせいで窮地に陥ってたり、むしろ悪化しているのを見ると精神的にキツイことがある。素人が病人にうっかり手を出すと傷を悪化させる可能性がある。カウンセラーなんていう人々に任せるほうがよっぽどうまくいく。なにしろ心の問題の専門家なのだから。

 

自分を正義のヒーローにしない、指導教官にならない

研究室の教授が放任的で指導をサボっている(ように見える)とかよっぽどヒドイ指導の場合、自分が救わねば!という正義の使命感に燃えてしまうかもしれない。中には自分の研究をそっちのけで学部生を卒業させること、そして教授の暴言から守ろうとする”疑似的な上司”であろうとすることもあるだろう。これは非常にオススメしない。

 

非情だが研究は一人でも進めようとすることだ。極論だが研究室の他のメンバー全員が卒業できなくても自分が卒業できればいいと思うことだ。なぜなら、他のメンバーの卒業のために自分の卒業を犠牲にしていいはずがないからである。そして、なによりも学生の指導は学生の役割ではないからだ。

 

鶏と卵の関係かもしれないが、教授自身も学生の学生に対する指導の熱心さを見て安心し、ちょっと自分のほうが忙しいから…と目を向けないこともあるだろう。そうなれば学生はますます燃え、教授はまったく信用ならん、自分がなんとかしなければ…と躍起になる。こうなれば学生の燃え尽きへの道が目に見える。

 

繰り返すが、学生の指導は学生の役割ではない。それは学生という職務の範囲の逸脱である。自分がやらなければ誰もが不幸になると勝手に思い込んでいないだろうか。なぜ学生が学生の将来の責任を負わなければならないのか。学生は自分自身の卒業にのみ責任を持つべきだし、本来そうあるはずだ。

 

学生自身のある程度の自治権は研究室において存在するだろう。例えば売店を運営してみたり、はたまた自宅から便利グッズを持ってきたり、勉強会を開いてみたり。だがそれでも学生の指導というのは指導教員たる教授の役割だ。その責務を学生が奪ってはいけない。不相応の覚悟や熱心さは身を滅ぼす。学生の指導にはある種の資格がいる。学校でいうならば教員免許だろう。研究の指導はその資格があるものがするべきだ。まだまだ研究を始めたばかりの人間(10年未満はひよっこだろう)に背負えるものではない。

 

でも、それじゃあ誰も救われないしブラック研究室はブラックのままだよ!という人がいるかもしれない。だが当たり前だが人生というのは、それぞれの個人がそれぞれ責任を持つことだ。ましてや研究をする人間は全員大人である。その研究室を選んで満足のいかない教育を受けようとも、それもまた自分の人生の選択に対する責任としてきちんと受け止めなければならない。それを誰かのために一人で受け止めようとするのはお門違いだ。そもそもそんなブラックで放置した人間自身が責任を取るべきなのだ。そうやって本来とるべき人物の責任を肩代わりする人間が居る限り、その悪い習慣は止まらない。

 

また自分が”正義”であると自負して相手を”敵”扱いしてはいけない。こうなると歩み寄りはなくなり、もはや戦争と化す。相手も素晴らしい武器で武装して襲い掛かってくることだろう。自分で相手を”敵”にしてはダメだ。というかわざわざ自分が聖戦を行う”戦士”になってはいけない。学生の本分は研究とわきまえること。聖戦は教務の方々やしかるべき上の人や准教授とか、別な権力を持つ人々に賢くお願いしよう。勝てない勝負で躍起になっても潰されてしまう。酷かったら相談してやめればいい。できるだけ外交勝利や戦略的撤退(卒業?)を目指そう。残念ながら研究室で革命や下剋上を起こしても学生は君主になれない。

 

献身的で優しく、そして自分を顧みない人は病みやすい

厳しくて怖い人間の指導は恨まれやすい。体罰などはもってのほかだが、本当につらくて思い出したくないほどだが、その経験あってこそというのもある。それが教育的に正しいかはわからないが、スポーツの世界では良く語られる話だ。

 

だが、その逆にとても優しく献身的で自分を顧みない人間は非常に不幸な末路を迎えやすいのはよくわかる。自身の身を削って他人を際限なく助けようとする。こうなると徹底的に救おうと努力はしてくれるのだが、救ったほうは生き絶え絶え。救われたほうが逆に罪悪感を抱えたり、その人間のためにならず次のステージでゲームオーバーになることもある。

 

また、助けてくれるのを当然と考えている他人を利用するタイプと当たった場合、骨の髄までしゃぶられ、そののち感謝もなく吐き捨てるように去っていく。こうなると費やした労力と与えられた結果の差に絶望したのち病んで退場することになる。

 

こういった献身的な態度は長続きしないため、とうとう残されたものは迷惑してしまうことになる。いまさら自力では這い上がれないのに、突然手を離されて奈落に真っ逆さまだ。そして恨み言を言われようものなら、何のためにがんばったのかわからなくなり、自分のすべてを信じられなくなるほど落ち込むことになるだろう。

 

さいごに

はっきりというが、他人を自分の簡単な労力で救うことができて悦に入らない人間などいない。なおかつ感謝までされればいい気分にならないほうが不思議だ。自分の研究が全く進んでいない時には万能感や自分は決して無能ではないと信じることができるだろう。だが、徐々にそれは回避的になっていく。いつのまにか部屋の掃除の最中に見つけてしまった漫画本のように、気が付くとそちらに夢中になる。自分にとっての隠れ蓑にしてしまうことになる。

 

教授が学生を見ていないから、代わりにやってあげてるから、だから研究が進まないんだ。本当に厳しく道先の見えない暗い道を進む時、心細く、しかも頼れる人間も相談もできず、そして誰からも見放されてると思ってしまったとき、最後に残るのは自分に感謝してくれる存在だ。自分が優秀な自分でいられるための存在を欲する。

 

書いてて胸が痛いが、自分がまさにそういう人間になったのだ。他人にとって良い人間として振舞うことで自分の研究の進まなさ、ふがいなさ、愚かな自分をその時だけは優秀な人間だと錯覚できてしまうからだ。なぜ研究が進まなかったのか?それは自分が勝手に袋小路に入り誰も助けてくれないと信じ、そして自分が役に立つことで自分を保とうとした結果だ。そうやってずるずるとタイムリミットまで先延ばしにして問題を見ないように逆方向の努力をひたすらにした。他人の問題を自分で利用することで自分にとっての最大の問題を後回しにした。

 

結局のところ、自分のことがきちんとできるようになって、きちんと余裕をもって自分を守れるようになってから始めて人助けができるというわけだ。社会ではあたりまえのことなのかもしれない。自分も溺れそうで必死になっている時はまず自分が助かってから。そうじゃなきゃ共倒れになって浮かばれない。あの時助けられていればなんていうのはちょっとした傲慢だ。それは自分の力を過信しすぎてるし、責任を一人でしょい込みすぎだ。学生は学生であるだけで精一杯でいい。自分のことを一生懸命やればいい。