かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

「落ち着きがない!」って怒られてたけど、「落ち着く」ってなに?

 

「落ち着きがない」という意味が分からなかった

子供の頃は親からよく「落ち着きがない!」と大声で叱られていた。通算すると100回は言われていたんじゃないかと思う。どうにも落ち着きがない子供だったようだ。自分で実感はない。だいたいのところ大人になった今でも落ち着いた人間だとは思っていないからだ。今も昔も自分は落ち着きがないのだと思う。

 

「落ち着きがない!」と叱られるたびに思っていたのは、「落ち着く」ってなんじゃい、ということだった。どういう状態が落ち着いていると言われるのか、学習できていなかった。まったくもってわからなかったのだ。自分にとって「落ち着く」という概念が存在しなかった。手足をじたばたする行動が落ち着きないと言われるならば、動かさないことが落ち着いた状態なのか。よくわからなかったし、なによりそんなこと我慢できなかった。おそらく両手両足を縛っても芋虫のようにずっともがき続けることだろう。子供の手足を言葉で縛ることなんかできるもんか。

 

大人になってから実行しているのは、「落ち着いている」と見做される人間の真似だ。どういった行動をとることで世間からはみ出さないかの研究成果といってもいい。例えば廊下の角を曲がるときはわざと外側いっぱいを通るとかである。こうすることで自分にとっての最短距離を通って、他人とぶつかって「落ち着きがない!」と怒られる事故を防ぐことができる。

 

普通に立っている時や人が話している時は自分の姿勢に思いを馳せたり、ゴッドファザーの場面のようにトレンチコートを着て普通を装いつつ警戒しているという役を想像したりする。「落ち着いている人」をシミュレーションすることで落ち着きのない自分を制御する。自分の空いているリソースを何かに使うことで他のことに気をとられないように気を付けている。

 

じっとしているフリ、集中しているフリ

子供にとっての一番の鬼門はじっとしていることだろう。確か小学校の入学式だったと思うが、自分が一番落ち着いてなくて保護者として恥をかいたと母親から折檻された覚えがある。本当に悔しくて泣いた。他の子供たちだって大なり小なり動いていたはずなのに。なぜ自分だけが…と思っても結局母親の主観が正義となってしまう。じっとするということが学校では多く求められる。しかし大体の時に失敗してきた。そのたびに「落ち着きがない」という評価ばかりつけられてきて悔しかった。時には笑われたり呆れられたりいじめの対象にもなった。まったくもって困った。

 

じっとするというのは難しい。落ち着くということはわからない。こんな自分が編み出した卑怯技というのは、しょせん他人からの見てくれが落ち着いているように見えればいいやということである。ばれなきゃいい。じっとしているように見えて他のことに集中したり、ゲームについて空想したり、ひそかに手足を動かしてみたり、実は空気椅子に挑戦して筋トレを試みようとしたり、校長の咳払いが何回かを数えたり。

 

つまり落ち着いている”ように見える”には体を動かさず真剣そうな表情をしているだけでいいということがわかってから楽になった。結局自分は落ち着くということができないと諦めることにした。というか「何も動かさず」「何も考えるな」というのは瞑想の極致である。そんなもん子供にできるわけがないし、忍耐強くもなく、おもしろくもなんともない。それを子供にさせようと強制するのは頭のいかれたカルトぐらいだろう。

 

おいおい、人の話に集中しろよと思われるかもしれないが、そんなこと大の苦手である。気が付くと別なことに気をとられたり、前を見てなかったりする。しょうがないので「前を見て真剣そうにしているフリ我慢大会」を自分で主催するくらいしかできない。そもそも一つのことに集中しなさい!というのは自分にとって無理な話だった。

 

勉強机に向かって勉強するというのはあまりにも難問だった。苦行でしかない。それでも高校受験、大学受験では必死に机に向かう時間を増やさなければならない。学校で自習したり、塾で自習するというのも選択肢としてあったが、自分にはなじまなかった。結局注意は周囲の大きな雑音で簡単にそれてしまうし、周囲に人間が居るというストレスに耐えきれそうになかった。家でやるしかないものの、簡単に机から脱走してしまう。

 

そんな自分が編み出したのは、椅子に自分を縛り付けることだった。中学では柔道をやっていたので、帯がある。せっかくなので柔道着も着て椅子に自分を縛り付けて勉強をすることにするしかなかった。部屋は寒いので、身が引き締まるし人生一度の勝負だから気合が入る。自分の注意散漫を舐めてはいけないとわかっていた。椅子は回転する椅子だと遊んでしまうし、キャスターがついているだけでも遊んでしまう。地味な動かない椅子に取り換えた。

 

さて、この状況を客観的にみてみよう。寒い中、柔道着を身に着け椅子に自分を縛り付けられつつ必死に勉強に挑む姿。もはや拷問にしか見えない状態である。母親が心配になって身に来た時、あまりの姿に「私が虐待しているようにしか見えないからやめて」と言ったのがめちゃくちゃ面白かったのを覚えている。でもやめなかった。そうでもしないと体がどこかに行ってしまうのを知っていたから。とはいいつつもトイレに行くために帯を外してしまったせいでなかなか戻れなくなったりして、そこまで効果が高いわけではなかったのが悲しいところだ。

 

しまいには壁のほうに机をわざわざ寄せて、背面に本棚を置き、側面には炬燵の天板を挟んで本当に囲いを作って逃げ出さないような工夫をしなければならなかった。ここまでくると猫対策みたいな気分になってくる自分が本当に理性のある存在か怪しくなってしまった。そうでもしない限り、自分で決めた勉強時間を守れないというのは本当に勉強嫌いだなあと少し苦笑いしていたが。

 

ともかくここまでひーこらして高校、大学受験をなんとか乗り切った。もう二度と自分で自分を監禁するような真似はしたくないものだ。そう思っていたのだが、結局卒業論文が間に合わずに研究室に自分を監禁する羽目になったので、二度あることは三度あったということだった。つくづく自分の性分が恨めしい。自己管理ができてない、落ち着きがない奴というレッテルは剥がせそうにもない。

 

おわりに

結局のところ「落ち着いている状態」というのは他人から見てみると「身体の動きが少ない」「周囲との接触事故を起こさない」「話す言葉はゆっくり」「相手をじっとみつめる」「反応に対して穏やかにほほえむ、ワンテンポ遅れる」くらいでしかない。後は「物忘れが少ない」、「どんなことが起きてもおだやか、冷静」なども挙げられるが、そこまで守らなくても「落ち着きのない人」という評価は回避できることがわかった。

 

貧乏ゆすりをしていたり、頻繁に姿勢を変えたり、しきりに髪の毛をいじったり、頬杖を突いたりしている人間は落ち着きがない人とみなされやすい。こういった身体的反応というのは心理学的に焦っているとか余裕がない状況、追い詰められている時に現れる。逆に言えば焦っていてもこれらの反応が出ることを知っていれば、ある程度は抑えられる。いわゆるポーカーフェイスの練習だ。化かしあいである。

 

大人になって「落ち着きがある」ように見える人間になるために、「落ち着いた人間」を観察して特徴を真似して…というのはなんだかサイコパスのようなホラーチックに聞こえないだろうか?小説などのシリアルキラーの設定では親に愛されなかった子供が愛されたくて世間をどん底に陥れる凶行に走るというのがありがちだ。そして現実でもしつけの歪みがそういった悲劇を起こすこともある。

 

落ち着きがない人間を無理やり落ち着けと抑えると、どこか性格が歪むかもしれない。子供の本来持っている無邪気さ、感情を否定することで大人になっても少しほの暗い傷が残ることになる。ただ「落ち着け!」と頭ごなしに叱るのではなく、別な解決策やいっしょになって考えようと諭すようなことが大切ではないかなと思う。