かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

serial experiments lain(PS版)は自分の人生の価値観を大きく変化させてしまった

 

serial experiments lain

serial experiments lain

 

serial experiments lainは一部の界隈でカルト的な人気を誇る作品だ。アニメとゲーム版が有名だろう。両方とも視聴したが、衝撃的でダメージが大きかったのは間違いなくゲーム版だと言える。なぜならば自分が操作して、自分が選び、それに対してレスポンスが発生するという仕組みそのものが、どこか中毒性のような侵食されるような要素を含んでいるからである。間違いなく病んでいる最中に触れてはいけない類の危険な香りのするゲームになっている。Amazonではプレミア価格となっており、おそらく中古ゲームショップでも1万円以下で売られていることはまずないだろう。

 

以下からネタバレを含みつつ内容について語りたいと思う。

ゲームとは言えない、アタッチメントソフトウェアというジャンル

プレイヤーは、ネットワーク内に散らばった lain に関する記録を集め、断片的な記憶をたどって lain の日常生活と彼女の秘密に近づいてゆく。

(中略)

ゲームの中でできることはあくまで「ファイルの再生」までであり、それぞれの情報が持つ具体的な意味まではほとんど窺い知ることはできない。「物語の結末を記録したファイルの再生」が一応のエンディングではあるが、物語の全容を理解するためにはプレイヤー自身が頭の中で情報を整理する必要があり、そこから導かれる結論の正当性もまた、各々の判断に委ねられている。

serial experiments lain - Wikipedia

Wikipediaの説明にある通り、プレイヤーは名前がついた連番になっているファイルを再生する。例えばCou001のように名前が付けられているので、順番をたどることができる…と考えるがすでにそこから罠に嵌っている。

どうして我々プレーヤーは連番に沿って物語を作ろうとしてしまうのだろう?たとえCou001がCou099となっていても、自分でこれは最初期の記録だろうと推測し物語を組み立てられる。推測できるのだ。そう、物語を理解するということがプレーヤーの目標へと変わっていく。ゲームとして扱うならば適当に丸ボタンを押して最後まで進めばいい。だが、どうしても登場人物たちの心情や謎に迫りたくなってしまう。

こうなればserial experiments lainの恐ろしさがわかってくるだろう。ただ音声データを番号を振って置いているだけでストーリーを組み立ててしまう。ストーリーをわざわざ自分の為に創ってしまうのはプレーヤー自身なのだ。これがゲームとして成立するのはプレーヤー自身の意志によってである。

 

プレーヤーが作り出すキャラクター

このゲームは2枚組になっており、ファイルが深淵へと近づくにつれ狂気度が増していく。主人公の岩倉玲音はコンピュータに関する知識をめきめきとつけていき、父親の失踪後には自らの手で機械じみた父親(?)を制作するまでに至る。徐々に電脳の知識も手に入れていき、人とは何か、情報とは何かといった哲学に近づいていく。

そしてカウンセラーと患者という関係がだんだんと崩れていく。玲音の考え方、思想に長時間接し続けてしまったカウンセラーである米良柊子が侵食されていく。次第に精神が悪化していくのは柊子のほうに変わっていく

…玲音はそれをゆっくりと眺め続け、まさか患者がカウンセラーをカウンセリングし始めることになる。医学の知識を電脳的に吸収し始め、これまで自分が受けていたカウンセリングのテクニックを積極的に利用し、自分の思想へと染め上げていってしまう。

これまでカウンセリングの記録として、患者である玲音の診断記録をつけていたはずが、いつのまにか玲音がクラッキングを行い、改竄し、あろうことか柊子の状態を克明に記録するようになる…。悪夢としか言えないだろう。

だがここで、ハッとプレイヤーにも背筋を震わせる事実があることに気づく。すでに玲音はクラッキングする能力を有している。ならば、これまで見てきたファイルの並びは…ファイル名は…内容は…そして最初からこちらを見つめ続けるAIの存在…。すべては玲音の手のひらの上だったのではないか。そうしてタイトルの意味がおぼろげながら理解できてしまう。そうか、これがserial experiments lainか…と。これは玲音が我々に仕掛けている実験なのだ。最初から我々プレーヤー達は試されていたのだと気付く。

 

玲音の存在とは何か?人間とは何か?

そして玲音は記録の中で拳銃を自分に向け自殺する。そういった記録が残っているのだからおそらく死亡したものと推測される。玲音は確証を得たので死亡に至ったのだとこれまでの記録から理解される。玲音は、電子上の膨大な記録の再現、再生によって岩倉玲音という存在自体が生き続けると確信していた。どういうことなのか。

プレーヤーは何気なく音声データの記録や映像記録、画像データの再生によって”岩倉玲音”という人物がどのように過ごしたか、どのような声かを知っている。そしてどのように思考したか、発言したかを覚えているし、理解している。更には描かれていない部分、明確に描写をされていない部分においてもプレーヤーは必死になって推察を試みて補完をしていく。

例えば玲音はクラッキングの能力が非常に高く、おそらくはこのアタッチメントソフトウェア自体を制作したに違いないと容易に推測できるのだ。ただ、この事実はどこにも描写されていない。ゆえにプレーヤーの妄想とも考えられるのだが、そういうことではない。

もっとも恐ろしいのは、これを岩倉玲音が”寄生”と名付けていることだ。”わたしはあなたの中で生き続ける”とも言われる。いつのまにか膨大な量の音声データなどの集積によってプレーヤー自身の内側に”岩倉玲音”というキャラクターが作成される、存在するということなのだ。そしてそれを、岩倉玲音は現実の人間も同じ仕組みなのだから、私もちっとも変わらないんだよと言い続ける。

よくアニメの台詞などで「私が死んでも悲しまないで…あなたの思い出の中に生き続けるから」などというのは使い古されているだろう。この現象はどういうことなのか。これはある場面において自分でその人物が生きていると仮定して、その人物がどういう反応をするかを、これまで貯めてきたその人物のデータベースに沿って導き出せるという能力だ。その人物の性格、考え方をシミュレーションして結果を予測できる。これが「思い出の中にその人がいる」ということなのだろう。

またすでに死んでいる人物が手紙を出し続けることで、あたかも生き続けているように見せかけると言ったこともできる。本人が書いたものである以上、そこに嘘は存在しない。これを一歩現代風に進めるならばAIとしてパターンを仕込み、適宜性格のように味付けして会話すれば、そこにいるのは本物かどうかというのは判別できないだろう。

だとすればアニメとして、ゲームとして表現された岩倉玲音という存在が”生きている”とされるのはどういうことなのか?たとえ死んでいると描写されても生きているとすれば?それは読んでいる、プレイしている人間の内側に岩倉玲音というキャラクターの精神性が移植されてしまった時だろう。もしこの場面に岩倉玲音が存在していたら…と考えるだけで、岩倉玲音という存在は不気味に蠢く。

これは小説家がキャラクターを創作して物語を作るうえで一番良いとされているのは、キャラクターたちが勝手に動き出すことだと言われることに似ている。それは自分の思想や考えを超えてキャラクターたちが自由に物語を紡ぎだすことだ。作家の制御を超えたところに良い物語はあるとされる。だが、一方でキャラクターを極端に内面に取り込みすぎ、制御を失ってしまえば破滅が待っているかもしれない。あまりにも役になり切りすぎて死亡してしまうような役者のように。

そういった意味でserial experiments lainは病んでいる人間にやらせると一発で危ないところに行ってしまうかもしれない。第一主人公とカウンセラーは現実に意味なんてないよねとして拳銃自殺とPCのモニタに頭を突っ込んで死んでいて、なおかつ岩倉玲音の存在が自分自身に取り込まれることが描写されるのだから特別に危険だろう。まるで映画タクシードライバーを見て、実際にレーガン大統領暗殺未遂事件を起こしてしまうように、ドラマ24を見て米軍の若い兵士たちが悪辣な拷問をしてしまうように。作品が大きく精神に影響してしまうことはよくある。

 

記憶とは何か、物語とは何か

岩倉玲音はネットワークにつながることで多くの人間に精神を移植して生き続ける。では生身の人間が生きているとされるのはどんな時だろうか。それは人が観測することでしか生きていることはわからないだろうと言っている。例えば目と耳が機能しなくなった時、誰が生きているのか存在すらわからなくなるだろう。目が見えなくなったとして、耳があれば音は聞こえるものの、そこにいるのか、いないのか、生きているのかは途端にわからなくなっていく。目でも将来は同じことが起きるだろう。精巧なホログラムやVRにつないでしまえばあたかもマトリックスで表現されているのと同じで、現実とあいまいになっていく。

生身の人間と創作されたキャラクターやAIといった電子データ、記憶や記録の集まりとの違いは何か。岩倉玲音はそれに対して問いかけているのだ。人間は生身の人間として出会うことで生きている、そこにしかいない特別性を感じるかもしれないが、それは単なる認識の違いでしかないのではないか。単に目や耳といった器官が受け取る情報を脳で処理しただけに過ぎないのならば、データの集まりといったい何が違うのか。そこに特別性は思ったほどないのではないか…ということまで考えさせられてしまう。

物語とはそこに語られたものだけでなく、むしろ解釈する側が積極的に関わっていく中でどれ一つとして同じにならないように無数にコピーされそれぞれの中に生き続けるという考えを持つようになった。それはいつも同じではなく、成長するにつれて忘れられたり強化されたり、一体化することもある。あたりまえかもしれないが、自分という存在への認識が他者の認識とはまったく異なるように、一見同じように物語を解釈したとしても、その内面に生き続ける物語は全てバラバラであるのかもしれない。

 

おわりに

gigazine.net

近年になってAIとかディープラーニング機械学習がもてはやされ、人工知能星新一の小説賞の一次選考を突破したという話題もあった。マイクロソフトのTayがTwitterで人種差別的なワードを学習しすぎてしまい失敗に至ったことも話題になった。

こうした中でserial experiments lain が早くから人間とは何か、情報とは何かについて一種の実験に取り組んでいたというのはとてつもないことのように思える。

創作したり人と接するうえで、どうしても自分の中で「その人」を思い浮かべるというのは自然な行為だ。例えば非常に厳しく叱る上司がいたとしたら、話しかける前にどういう反応が返ってくるかを予測して体が強張るだろう。そうなれば「その人」が自分の中に内在化していると言えるし、過去に友達に言われた「絵が下手」とかいう呪いが残っていることも内在化と言える。

そのことを意識したうえで内在化された人間の消去や変更を試みてみたり、すでにいない人を偲ぶこともできる。なんというか完全に悪い意味でもなく、むしろ当たり前のように活用している能力を改めて見つめなおせる。自分は一人で生きてはいないというのは真実、内在化したキャラクターたちとの出会いであることともいえるし、架空のキャラクターを尊敬したり、愛したりすることもまた現実の存在とも変わらずに真実であると思うことだってできるのだから。