かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

間違うことを怒られてばかりだった時、数学を学んでいて気づいたこと

 

間違っちゃダメ教育

学校では間違うことを極端に嫌う。テストでたくさん間違えば、たちまち先生や親から叱られることだろう。算数では途中計算式や掛け算の順序が違っているだけで怒られるし、漢字では書き順が違っていても怒られることもある。音楽では声が大きくないとダメだ。ともかく何か人と違うとか、正しいことができないときは叱られる。こんなことを強烈に何度もやられると、いつの間にか失敗を極度に恐れて隠すようになる。

 

昔小学校でテストを受けていた時は、濃く書いた後中途半端に消して、次にそれなりの濃さで書いてみて2種類の回答を用意するというしょーもない手口を使おうとしたことがある。間違っていれば、いや先生、正しい答えはこちらなのです、という感じで実質答えを2つかけるという画期的な戦法だったが、先生が読んで判断した答えが答えですという回答により抹殺されてしまった。

 

ともかく答えを間違うとか問題に答えられないということを極度に恐れるあまり、何かに挑戦したいだとか時間がかかることは嫌だとか、点数にならないことはしないとか、チャレンジしようという気概がなくなっていく。失敗を恐れてしまう。

 

失敗を恐れるよりも、楽しく問題を解きたいと思える気持ち

そうして中学に入ったころ、受験だとかで忙しいときにふと思ったことがあった。もう受験なんて嫌だ勉強なんてしたくないと本気で思っていた頃である。なんていうか、当たり前なのだが、自分にとって受験に失敗したとしても死にはしないよな…と思った。高校にそこまで思い入れもなかったので自分の中で深く納得できた。私立に行って困るのは親だろうし、自分も志望校に落ちるのは嫌だが死ぬほどではない。それに落ちるなら勉強が足りなかっただけなので別に恨みがましいわけでもない。

 

となれば失敗するのを恐れるのが少し馬鹿馬鹿しくなってきた。所詮テストで人は死なない。そんなに深刻になるものでもないなと思った。人生だってまだまだあるし、テストごときでそもそも人間測れるものかという気持ちにもなった。なんていうかケアレスミスだとか肩肘張って躍起になって机にかじりついていると視野が狭くなって疲れる。

 

間違いたくないなと思って数学の問題を解くよりも、楽しくこの問題を解いてみたいと思っていたほうがはるかに気が楽だと気付いた。そりゃそうなのだが、今まであんだけ学校でテストというもので正解が素晴らしく、不正解は罰せられるかのように教えていたのだからしょうがない。間違っていたとしても、自分なりに面白かっただとか、新しい解き方や考え方を思いついた等のほうがよっぽど幸せだろう。

 

あるいは問題自体がよっぽどつまらないと思ってもいい。たまに試験で罰を与えるために作られたような頭のおかしい問題もある。そうなると自分がいったい何故その問題を解きたいと思えるのかということを考えたほうがいいような気がする。

 

自分が解きたいと思える問題を探す?自分で問題を作って自分で試す

学生が何故その問題を解きたいと思うのか、という動機づけについては誰かに教えてもらった記憶がない。なんだろう、当たり前のように学生は全て問題を解かなければならないと強制されているためか。あまりにも義務になりすぎて、動機などまったく考慮せずに機械的に問題を解く能力を審査しているからなのだろうか。

 

教育というのはそもそも何を解きたいと思っているのか、何が問題なのかを発見することも大切だと思う。その中で自分は何故問題を解きたいと思っているのか、どんな問題を解決したいと思っているのかという自分の中にある心を自分で育てるということも素晴らしく大切なことのように思える。

 

当たり前のように1+1=を解くのではなく、どうして1+1を解きたいと思うのか。次にどんな問題を解きたいと思うのか。+という機能をさらに拡張するような問題と出会いたいのか。そうすると自分で確かめたくなってくる。自分で問題を作って自分で解くようになると面白い。そうすればどういった問題について考えたほうが良いのかということにもつながるかもしれない。自分の問題設定能力に磨きがかかれば、自分で新しく物事を追求したいと思えるのかもしれない。

 

そうやって当たり前に問題を解かない、自分で解きたい問題とは何か、自分がもっと知りたいと思っていることは何かを探していく教育というのはなかなか面白いものになりそうな気もする。