かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

乾いているか、湿っているかが名文と悪文の違い。文章読本(向井 敏)について。

 

一味違う始まり方をする文章読本

文章読本 (文春文庫)

文章読本 (文春文庫)

 

まだ完全には読んでいないのだけれど、買うきっかけになったのは間違いなく序章の面白さだ。向井 敏の文章読本はわりと古い類で、ちょっと人気がないのかもしれない。たまたま図書館で見つけて、気になって取ってみたところ自分にとっては大当たりだったのだ。これはいいなと思い、自分で購入することにしたのだが書店にはまず間違いなくおいていない。

しょうがないのでAmazonで購入することにした。しかしAmazonで表紙すらないのには驚きだ。著者の向井敏はこのほかにも文章や読書について語る本が出ているみたいなので読了後にチェックしてみたい。

乾いた文章=恨みなどの感情に目を曇らせない

暗い題材を扱っていても、気持ちよく読める文章がある。逆に、明るい話題をとりあげていながら、吐き気のするような文章がある。改めて断るまでもないとは思うが、文章の持つ快さ、あるいは不快さは作者の精神のあり方の如何にかかわるものであって、扱われている題材やテーマの暗さ明るさとは本来関係がない。

文章読本 第一章 乾いた文章 湿った文章 P23

第一章からいきなり面白い展開の文章で始まっていく。確かに借金地獄のさなかで精神的に明るい人もいれば、どうみても幸せの只中にいるはずなのに周囲に対する怨念や口にまみれてしまっている人もいる。そのことと同じように、文章にもそれが現れるという持論が書かれている。作者の精神が明るければ暗い題材も快く読めるのだと。

そもそも文章の読み心地の快さ、不快さという概念も面白い。確かに同じような主張でも人を食ったような文章や人を怒らせたり、昨今では炎上してしまうような文章だってありえるだろう。もしも同じ意見を言っているはずなのに共感を呼び起こしたり、はたまたヘイトを買うようになるのは、やはり発信者の精神性や文章の快・不快の差なのだろうか。

作者は暗い題材を扱うとどうしても、どこか人の心を沈ませ、湿らせてしまうのだと説く。その暗さ、湿っぽさを払しょくするには作者の心のさわやかさと題材を扱うときの緊張感が人一倍大切だという。

例えばということで「古都好日」という作品を挙げる。これは京の四季を描いた歳時記風の作品らしいが最終章が”救いようもなく暗い”。だが文章がじめじめしておらず、読んでいて快いというのだ。題材はこんな感じだ。

戦時下、いよいよ敗戦濃厚となった寒い冬の日。泊まる所がなく仕方なくさびれた妓楼に出向くと全員痩せこけていて、半月まともな飯も食ってない。そんな状況の中ふと食べてみないかと握り飯をあげると遊女が喜ぶ。しかし空襲警報がたびたび鳴って避難にしてと気が休まらない。そんな日を過ごしたのは20年前ぐらいのことだが、娘が生きていれば子供の二、三人できていることだろう。そうであったらいいなと締めくくられる。

これだけ見るととても悲惨で暗い話のようだが、実際の文章を見てみると確かにそこまで暗くは感じないように思ってしまう。どこか作者の余裕なのか、これこそが乾いているというのだろうか。作者はこの文章を”戦時期の回想を録した文章の数あるなかで、屈指の名文”と評する。確かに戦時中の話はじめじめとして暗い話が多いように思う。この文章の快さというのは、やりきれない時代への嘆き、暗さをもたらしたものへの恨みなどに目が曇っていないからだと作者は言う。こうした情念に対して毅然とした態度で書くことが文章の快さには必要なのだと。

 

湿った文章

湿った文章の例としてはいくらでもあるというが、作者が引用しているのは先年(昭和59年=1984年)「朝日新聞」に載った「天声人語」が酷かったとと書いている。題材はジグソーパズルについて。これだけだと別に暗くも湿っぽくも気分が悪くなることもないとは思う。著者はジグソーパズルが好きで、ジグソーパズルに割く時間が少ないことを嘆くほどだという。

そんな中で「天声人語」でジグソーパズルは「一人で遊べて競争がなく」「競争拒否症」で社会逃避の表れで「現実の問題」をかつぎだし「ナマの人間とのかかわりのほうが大事」と説く。競争社会から逃げることを批判しているのだが、反面「ナマの人間のかかわり」で競争社会の非をほのめかすという矛盾、曖昧で筋が通らない文章を書いている。

これを作者は”明晰さこそすべて文章に必須の要件”と処断する。結局は著者の市場に過ぎないものを天下の公理のように扱っているからダメなのだ。こういう書いた人の心の中でジグソーパズルを下に見るような馬鹿にする気持ちが表れているから湿っぽいどうしようもなく不快な文章になる。そのうえで「ナマの人間」を持ち出して正義のように断罪しようとする文章なのだからまったくもって陰湿な論法だと説明してくれる。

 

名文と悪文を対比させながら熱っぽく読ませてくれるこの本こそ、名作。

という形で名文に対しては惜しみない賛辞を書き、悪文に対しては面白いぐらい感情をあらわにして説明してくれる。この悪文に対する素晴らしく感情的な文章の面白さだけでも買う価値がある。ちょっと引用してみよう。

不愉快な気分を味わわされたうえ、それをまた書き写すなど、なんとも気が重いし、それに悪文はこれ一つに限ったことではないのに右総代のようにして遇するのはいかがなものかとためらわれもするのだが、ここはやむを得ない、そうした不快な文章の例を一つ、引いてみることにする。

文章読本 第一章 乾いた文章 湿った文章 P31

 

北條秀司のしみじみした名文に触れたすぐあと、何の因果でこんな不愉快な文章とつきあわねばならないのだとぼやかれそうだが

文章読本 第一章 乾いた文章 湿った文章 P33

 

それにしても、ジグソーパズルという秘愛の遊びをさんざんにあしらわれて、そのまま章を閉じるというのはいかにも癪だし、口直しも兼ねて、遊びを扱った気持ちのいい文章を引いてみることにしよう。

文章読本 第一章 乾いた文章 湿った文章 P35

 

もう、悪文に対する嫌悪感を丸出しにしたような文章が並んでいてつい笑ってしまう。先生そんなに嫌だったんですか…と思わず笑ってしまうだろう。不快な文章を一つ例に挙げる、で済むはずなのにわざわざ何行も費やして本当にしぶしぶ…という感じが表れていて本当に面白い。引用して説明し終わった後も散々ぐちぐち続いていて本当にいやーな文章を感じ取ってしまったんだなとわかる。少し前の快い文章を引用した後とはテンションが正反対すぎる。こうした乾いた文章、湿った文章を読んだ人の感情的な反応を文章として見るにはもってこいの例だろう。なんだかメタっぽくて面白いじゃないか。

 

おわりに

自分も乾いた文章、湿った文章についてはかなり同意するところがある。なんだかかちーんとくる文章というのは陰湿だとか、人を落ち込ませるだとか、努力や精神性、内面の否定、最初の一歩を踏み出そうという心をくじくものである。そういった文章を湿った文章として区分するのは良い考えだと思う。

 

kayanomi.hatenablog.com

例えばブログ記事をいくつか書いているのだけれど、一番の湿った文章というのは間違いなく「子どもに小説は書けない」だろう。完全に余計なお世話な文章だし、なにより論理がねじ曲がり、世間一般の素晴らしい正義のように振りかざしているところが、先の天声人語の例に非常によく似ている。間違いなく湿った文章だろう。

こうした湿った文章を読んで心が暗くなってしまた人たちに向けて、心を乾かすような明るい文章やちょっとした火付けのようになる文章を書きたくなる。自分の書いた先のブログ記事というのは読んでみて確かに心が湿っぽくなったが、自分の心の内側から「なんだこの文章はー!余計なお世話じゃー!」という怒りの炎でカラカラとした気持ちで書いたつもりだ。こうした湿っぽい文章で落ち込むことはないんだよというエールを籠めて書いたつもりだ。

kayanomi.hatenablog.com

同じように“共感”がWEBメディアをダメにしたという記事に載っている一部の主張に対して反論したのが上の記事である。見るからに人を落ち込ませたり悩ませるような文章があって怒りというか、こんなどーしようもない湿っぽさで人を落ち込ませてるんじゃねえ!という気持ちで書いた。誰だって文章は書いていいし、自分なりの表現や言葉だと信じて書くことが正しいという譲れない信念からだ。こういうもので湿ってしまった人に少しでも元気やからっとした気持ちになってもらいたいという気持ちである。

自分の書いている文章がときたま、暗くなってしまったり世間に対していいようもない暗さみたいなものを書いてしまうときがあるかもしれないが、できれば毎回おだやかに、からっからに澄んだ心で読んでいて快さ、スカッとした気分になるような”乾いた文章”を書いていきたいと思っている。