ふと誰かの消息を心配するとき、昔インターネットのどこかで見た言葉を思い出す。たしかこんな言葉だった。
人生は、最初はお日様がさんさんと照らしていて雨なんか降りそうもない天気。
けれど時々、お天気雨がふるように人との別れがぽつぽつと。
最初は気のせいかと思うけれど、大人になるにつれて雨が酷くなってくる。
人生の終わり際にはとうとう土砂降りになってしまうのだ。
この言葉はちょっと物悲しいけれど、でも少し寂しげな美しい景色のように感じられるのだ。人間天命には逆らえない。必ず別れはあるのだけれど、それをお天気雨、にわか雨、土砂降りといった”雨粒の量”で表現した言葉が美しい。どんどん暗くなっていく空の光景も想像できる。
それぞれの人生で時々曇ったり、日が差して虹がかかったり、急に土砂降りに見舞われたり。人生の苦難も”雨”という表現に適している気がする。止まない雨はない…というけれど、人生の別れを止めるすべはない。ただひたすらに雨がざあざあ降るのを、きっと自分も濡れながらじっと見つめるほかないと思う。でもそれをわかったうえで見つめるのは、なんだかいいなと思うのだ。
この気持ちはメメント・モリのエピソードにも関連付けられると思う。
メメント・モリ(羅: memento mori)は、ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句。「死を記憶せよ」などと訳され、芸術作品のモチーフとして広く使われる。
古代ローマでは、「将軍が凱旋のパレードを行なった際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は、「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」ということを思い起こさせる役目を担当していた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。
自分にいいことがあったり、順風満帆だったとしても…少しずつ雨脚が近づいている。ふと地面に雨粒が落ちた跡がある。そんなときに冒頭の言葉を思い出す。どうしても雨がいつか降ることは止められない。それがいつ土砂降りになってしまうのかもわからないけれど、それは本当にしょうがないことだ。
メメント・モリという言葉よりも風景的にきれいな、この雨の表現のほうが好きだ。
自分が子供のころに本当の別れなんて、経験したことがなかった。お天気雨すらなかった。けれど大人になって、初めて雨が降ったんだなと実感したことがあった。それはにわか雨だったかもしれないけれど、きっともっと降ってしまうんだろうなと思わせるには十分だった。
それでも、大人になったから曇り空や暗い空になってもちゃんと前を向いて生きていける。雨を怖がることはない。…子供の時にひどい雨を経験してしまうのは悲しいことだ。ちゃんと大人が傘を差して守ってあげないといけない。雨を止めることはできないけれど、雨に濡れるのを守ることはできるはずだ。
メメント・モリといったときに思い浮かぶのは自分の死だけだと思う。けれど、自分にとっての”人生の雨”という表現は同じ雨に降られていることを想像したり、自分が濡れてしまうことを想像したり、誰か濡れてしまっている人に傘に入れてあげるようなことを思う。だからあまり悲観的な表現には思わない。死を忘れるなということよりも、やがて訪れる別れに備えて、それをありのままに受け入れることにしようとしているからだ。
時折悲しいことや寂しいことが起きてしまうのだけれど、そんな時に心の中で雨の風景を思い出して想像にふける。今どれくらい自分の周りに雨が降っているんだろうか。今後どれだけ降ってしまうんだろうか。自分が今、どんな場所にいて、雨に濡れてしまっているのかな。そんな風に想像して、いろいろ感じて見ることにしている。