かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

相手に見えないからって自分の内側でいろいろ違うことを思考するのは悪いこと?

 

誠実でいるということの難しさ

この間本を読んでいてきつい一言が載っていたのが印象に残っている。それは自分の内側であれこれ思考していろいろ言っていることは、相手に伝わってないから大丈夫と思ってるかもしれないけれど本当はちょっぴり見えないところで伝えあってるものだということ。そしてそれを”思考がうるさい人”と言っていた。これは自分にとって耳が痛いことだった。

 

よく顔に出さないように相手が喋っている時に自分の内側で「つまんないなー」とか「こうすればいいのに…」と内側で思考している。それは決して相手には伝わらないだろうからしめしめと一人遊びを楽しむようにやっていたのだけれども、上記の言葉がぐさりと突き刺さった。なるほど黙っていたとしても”思考がうるさい”というのはちょっとつらいことだ。

 

たしかに相手に接していて黙っているんだけど態度とか表情のちょっとしたところに不満ですよという感じが伝わってきたり、つまらない、わからないという雰囲気を感じたりする。どことなく空気が凍っていたり、拒絶されているんだなと感じるときがある。そういったものはひょっとすると相手の内側の思考をほんの少し感じ取っているのかもしれない。

 

相手にばれないから安心と思って心の中で相手をののしったりしていれば、それはどことなく態度に表れてしまったりするのかもしれない。かといって正直すぎるほど自分の心の内側で思っていることを言ってしまうのはよくないことだ。それに自分の心の中の内側の想いにまでウソをついたりごまかしたりするのはちょっと窮屈だ。

 

ではどうすればいいんだろうか。思考がうるさくない人、なんてものになれるんだろうか。あっけらかんとしている人やぼーっとしていて悩みがなさそうな人に自分がなれるか?というとそれは難しいかもしれない。とすればなるべく思考を抑えられる人間を目指すべきなんだろうか。相手と話している時はその相手に対してきちんと集中を向けること。そのうえで自分の思考を逸らさないように保つこと。かなり難しそうだ。

 

けれど裏を返せば話を聞いてるふりしたり肯定してるふりして相手の見ていないところで悪口を言ってるようなものだ。そう考えると相手に誠実でいることというのが大切な気がする。表面的な誠実さを見せるのではなく、心の中から誠実でいることというのが大切なんだろうか。

 

相手に見えていないからまったく気にしないという精神で自分の内側で内職のような思考をするのはよくないことなのかもしれない、そんな風に思った。

 

おわりに

自分の内側の思考を正してくれる人というのはまずいない。なぜならばその思考を覗き見れる人はいないから。自分から外側に思考ログを公開して指導してもらうなんてことはまずもってないだろう。とすれば自分で自分の思考がどうあるべきかというのは自分で決めなきゃならない。

 

自分の思考の歪みとかを正す方法としては認知療法などがあげられる。こうしたツールみたいなものを使って自分が普段考えていることを外側から客観的にチェックできる。まあそれでも認知療法の中にも相手に接している時には失礼のない思考をしましょう、なんてことは絶対書かれていないに違いない。そこまでいくと礼儀の範疇を超えてしまっているからだ。危ない宗教になりかねない。

 

けれど、自分で思うにわりと内側の思考とか精神というのは結局のところ、いろんな行動のつまらない部分や態度なんかに反映されてしまうのだと思う。自分の行いを正すにはまず思考から…なんてのも案外悪くないことかもしれない。案外ばれてないから何でも言っていいやという思考が相手にどう映っているのか。意外と興味深いことかもしれない。