かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

老いと成長の違いについて。

 

制限と自由

ふとメモ書きしていたことなのだが、老いと成長は何が違うんだろうか。子供の頃にできなかったことと現在においてできなくなったこと。この二つの差についてちょっと考えた。

 

子どもの頃できなかったというのは、背が小さくて棚の上に届かないとかそういったもの。老いによるできないことというのは無理に棚の上のものを取ろうとしたときにギクッと何処かから音がして非常に危険だということ。どちらもできないことはできないけど、ちょっと種別が違うはずだ。

 

そんな風に考えて、老いとは制限であり成長とは自由じゃないかと思った。老いた時、人は自分の身に制限が発生したことに気付かない。自分がどの程度までやれるのか把握できなくなるのだ。

 

成長とは制限の反対で自由。だが自由には人間気づきにくいもの。そして与えられた自由なんかだと、本当に自由か試さなきゃわからないということだ。動物園の象のように子供のころから周囲に制限をかけられると成長して自由になっても自分は縛られたままだと思ってしまう。

 

togetter.com

同じように子どもの頃から周囲から呪いをかけられることもあるし、自分自身のことを低く見積もってしまうこともある。そうなると自分が本当に自由であることを自覚できないでいる。自分の自由を試すことなく、いつのまにか自分で制限をかけてしまい、やがて加齢による本当の制限が来てしまうのかもしれない。

 

おわりに

少年老い易く学成り難し、なんて言葉もある。けれどこの言葉のニュアンスは今まで悪い意味のもの、言ってしまえばお説教用の言葉だと思っていた。けれどもふと調べてみると好意的な解釈をしているサイトがあった。

kotowaza-kanyouku.com

「春に、池のほとりの草がゆらぐ、
そんな夢をみていたと思っていたら
もう秋風にふかれて階段に葉っぱが散っているよ。

わかいと思っていてもすぐに年とるなあ、
学問を身につけるのは大変だ、
ちょっとの時間も大事にしないと」


厳密な現代語訳とは
ちょっと違いがあるかもしれませんが
ことわざの意味から考えると
だいたいこんな感じになると思います。


で、一見すると、この詩は
「勉強たいへんだ、むつかしい」
みたいな、しょんぼりとした内容にもとれますが、

よく考えると、時の流れを感じつつ、
「まだまだがんばるぞ」
という解釈もできそうです。

例え老いがあったとしても、学ぶスピードが落ちてしまったとしてもまだまだ頑張ろうと思えること。そしてその老いについて受け入れているような前向きさに励まされる。この言葉は決して後悔などではない。かつてあんなに自由だった、あんなに時間があったはずなのに、今となっては自由もなく時間もない…。なんて嘆いちゃいないのだ。

 

だから少年老い易く学成り難しを説教に使わずに、自分自身の励ましとして切り替えたい。この言葉は若者たちを学業にむりやり追い込むような言葉ではなく、自由な大人としてまだまだがんばるぞ、と使える言葉なのかもしれない。