かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

怒りとは悲しみを隠すためのものだと思っている。本当の気持ちは何だろう。

 

自分は怒りとは大人が悲しいと思っていることを隠すためのモノだと思っている。自分が何かに怒っている時、他人が怒っている時、実はその怒りよりもまず悲しいことが裏にはあるのかもしれないのだ。怒りの只中にある時はそれに気づかないのだけれど、思い返したりすることで傷ついたとわかるときがある。

 

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赤ん坊は感情を快、不快から発達させて様々な表現を身に着ける。怒りは不快から誕生している。不快の気持ちも様々だが、基本のベースは悲しいという気持ちからではないだろうか。怒りとは自分の気持ちを戦う気持ちにさせ、悲しいという気持ちを一時的にマヒさせる。

 

だが怒りは長続きせず、ある種の興奮剤とか麻薬みたいなもので効果が切れれば一気に気持ちが下降する。最初は驚き、怒り…最後には無力感を感じ始め絶望し深い悲しみに至る。ここまでくると心身に悪い影響も出るので怒りの反応の理由を調べて対処することが必要じゃないかと自分は思っている。

 

例えば長い行列だとか満員電車などで思い切りぶつけられイラっとしたとする。これは正当な怒りだと思い、しばらくたつまでイライラしっぱなしで愚痴を散々言ったりすることもあると思う。けれどその根底にあるのは悲しさじゃないだろうか。なぜ自分が思い切りぶつけられたりしなければならないのだろうか。もう少し気遣いをしてくれたっていいのに。そういった自分の気持ちや感情を傷つけられたと思う。

 

人に怒りたくなる時もある。何度言ってもわかってくれなかったりやる気を出してくれなかったり、挙句の果てにこちらに逆切れされたり…。けれど、やはり根底には自分のことを分かってほしいとか不甲斐なさ、無力感、暖簾に腕押し…みたいなところを感じて悲しんでいるのだ。怒るよりもなにより自分が悲しい気持ちになっていることを認めて落ち込んだほうが人に攻撃するよりもずっとマシだ。

 

逆にあまりにも激怒している人に出くわすとぎょっとしたり、すごく落ち込んで悲しい気持ちになることもある。できれば怒ってほしくないし、こちらに攻撃する人の気持ちにはあまりなりたくはないが…。要はそういった人々も怒りの裏にはきっと悲しい気持ちやストレスなんかを処理できなかったという事情がある。

 

クレーム対応じゃないけど、相手が傷ついたことに対して謝罪することが大切だとは思う。まずは怒っていることに対して対処するのではなく相手の傷ついた感情に謝ること。…ただあまりにも常日頃から怒り続けている人は要注意だ。もしくは常に不機嫌で周りに当たり散らすような人である。

 

こういった人々に対して自分が受け入れようとしたり、傷ついた感情に配慮しようとすると向こうも遠慮なしに攻撃してくる。それはある意味怒りという体裁をとった甘えなのだ。誰かに悲しいという気持ちを紛らわせてほしいというものが非常に厄介な攻撃としてこちらに襲い掛かってくる。そんなものをいちいち対処することなどできないのですっぱり関係を断ち切ったほうが良い。

 

もしも周囲が怒りがちで不機嫌で、誰もがイライラしているとしたら皆が傷ついているということである。助け合いもできないような環境がそうさせているわけで、そういったものは個人がどうにかできるものではない。そのようなつらい環境が生んだ怒りのはけ口にされないようにしたほうが賢明だろう。

 

怒りとか不機嫌だとか…皮肉なんかも結局は感情が傷ついたというサインであると思う。そういった人々が多かったりすると大きな問題が転がっているんだろうなとわかる。自分がもしも些細なことにもイライラしがちになってきたとしたら、それはきっと自分の心の中で整理できていない悲しみがあるせいかもしれない。そんな風に怒りとはなんだろうか、自分は何にに怒っているんだろうか。何かに傷ついていないだろうか。そういう観察が大事じゃないかと思う。

 

おわりに

怒らない人はいないと思う。怒らない人というのはよっぽど余裕があるか、もしくは感情を隠すのが上手な人ではないか。もしくは自分が感情を押し込めていることに気付かない人もいる。そういった人はいつか爆発しないようガス抜きができると良いのだが…。

 

怒りとガスとはうまい例えだと思う。本当の根っこの部分を処理しない限り怒りはいろんな形であちこちから漏れ出してくる。ちょっと違った形でガス抜きしようが本当のもんだ解決には至らないところもだ。たまに怒ってしまったりはするのだけれど、怒ったときに自分の感情をきちんと理解できるようにしたいと思っている。