かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

父親の言葉に思う「できるまでやる」ということ

 

父の言葉の意味

昔、自分が何に対しても中途半端であることに悩んでいた時に父が言った言葉がある。

「できないからやらないんじゃない、できるまでやるんだよ」

そんな言葉だった。最初はいい言葉だと思った。響きもいいしどこか人を納得させる力強さもある。確かに心の中で怯えていたのも事実だった。

 

初めてやることに尻込みもしていた。できなさそうなことだから、むやみに挑戦しないようにしよう。”いつか”できるようになったら、やってみよう。そんな風に考えていたからだと思う。父はそんな自分に発破をかけたかったのだろうか。

 

成長するたびにこの言葉の意味を確かめてきた。最初はこの言葉に対して反抗もした。できるまでやる、なんて馬鹿げてる。日本人独特の根性論じゃないかと。できないのに無理してやる必要もない。どこか斜に構えて世の中をちょっと恨めしく思っていた自分のよくやる言い訳みたいなものだった。

 

自分で新しく解釈する

今、大人になって思うのは…。この言葉に必死にしがみつかなくてもいいということ。そして無暗に否定する必要もなく、なんていうかポジティブに自分なりの言葉にしたうえでやってみようと思うのだ。言葉通りにする必要はなくて、そこに含まれたものをきちんと受け取れればいいんだと思う。

 

本当に父が言いたかったこととはこういうことだと思う。「いいからやってみなよ」たぶんそれだけだったんじゃないか。「やってみたら、できるかもよ」と。できるまでやる、というのはそこから先の話だ。目標を必ず達成しろと叱りつけてたわけではあるまい。それぐらいの気概で臨めといういささか男らしい乱暴な気遣いだったのだろう。

 

大人になって、自分がなんとなく身に着けたものがある。それは本当になんとはなしに身に着けてしまったものだ。なんとなく興味があったから学んでみたもの。自分がいいと思って選んだもの。そういった”小さなやってみよう”がいつのまにか続いていた。そんなことは小さいながら誰にでもちょっとずつあるはずだ。

 

例えばゲームだって適当にやっていてクリア出来たら嬉しい。難しいモードでクリアできればなおさらだ。たまたまボーリングにハマって200点を出せるまでがんばったりもするかもしれない。それは誰にでもできることではなく、やりたいとか少しの気持ちから始まったことだと思う。(ちなみに自分は100点なんて超えない)

 

人間できるまでやってみようというやる気が起きるのは、自分でちっちゃな一歩を踏み出そうと決めた時じゃないかと思う。そしてできるようになるのはきっと自分で楽しんでやれるからじゃないだろうか。

 

それにできるまでやってみるというのは無理をしてではなく、結果として”できるまでできた”のなら、きっとそれが好きなことってことだと思うのだ。向いてるというか、自分にとって無理なくできたのなら、きっといいこと。それぐらいなんだと思う。

 

できないものばかり探したり、できるものを探したりすることが多いと思う。けれど本当はやってみて続いたらラッキー、それはきっといいものです、くらいのことなのかもしれない。ささやかながら続けられるものが見つかるというのはいいと思うのだ。

 

おわりに

言葉の解釈というのはとても大切なことだと思う。漫画の名言だとか尊敬する人の言葉だとか、そういったものをそのまま受け取るのではなく自分なりに解釈して受け取ることが大切じゃないだろうか。言葉通り受け取っていては頑なになってしまう。

 

こういう考えに至ったのは自分の好きな漫画などで気に入らない台詞があったときだ。どうしても自分の主義主張と合わない台詞がある。それにどうも作品からはみ出しているようにすら感じる言葉があったりした。これを受け入れるのは難しいし、自分に反する。

 

そうしたときに言葉に含まれている意味を汲み取ろうと思った。結局のところ言葉そのものに価値があるわけではなく、そこに含まれた意味や想いに意味があるのである。だから言葉ばかりに目を向けるのはある意味人の外見にばかり気を取られることに等しい。言葉をありがたがって無意味に斉唱したって何の意味もないのと同じである。

 

きっと教育とか指導なんかも同じなのだ。額面通りに受け取るだけじゃダメで、そこからさらに一歩見えないものを見ることに気づかないといけないのかもしれない。この記事を書いていてようやくそんなことに気づけたような気がする。なるほど、親の教育というのはここまで気づかされるものなのだなあ。ちょっと感動した。

 

当時は反抗期だとかそういうわけで躍起になっていたけど、ふと思い出で振り返るとそういった角も取れていろいろ観察できるようになった。これからもふと思い出す機会があったら懐かしんで、そしてもう一度学びなおしたいと思う。