かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

教育と期待のかけ方について

 

期待は目に見えるのか

教育なんてたいそれたことを今までできたことはないけれど、個人的な関わりの範囲で人に何かを教えた機会はあった。そんななかで思うのは、人にはどのように期待をかければいいのか?ということである。相手にどのような態度を見せるべきかということ。

 

どのような態度を見せるか?というのはどのような態度をとるか?ということとは異なる。これは見せなければならないこと、言うならばアピールポイントである。相手がこちらに向かって「この人はこのような態度である」と認識させることだ。つまり自分が目指している像を相手と合わせることである。これが大切じゃないかと思う。

 

教育、もしくは人に何かを教えるときというのは「相手に期待している」という態度を見せることが大切じゃないかと思う。相手が期待されてると自分で信じられるようになること。教える側が勝手に期待してるから、暗黙的に伝わるだろうとかわざと見せない…ということではない。

 

自分は人は期待されてるとか気にかけてもらってる、もっと言えば「見捨てられていない」ということが大事ではないだろうか。好意の反対は無関心とはよく言うけれど、それは教える側としても同じじゃないだろうか。放っておくというのは好意の反対のことを相手に伝えてる可能性もあるのだ。

 

だからなるべく言葉でも、姿勢や目線でも「気にかけている」ということを伝えることで相手も少しこちらを信じてくれる土壌が生まれるんじゃないだろうか。これはおべっかだとかいい目で見られたいという話ではなく、単純な信頼関係の構築に必要だからだ。教える-教えられるという関係の上では信頼関係は大切だと思う。

 

こちらを信用していなかったり、何も期待していなかったりする人はなんとなくわかる。伏し目がちで、返事もほとんどなく、質問もない。体をこちらにすら向けないということが多い。教えるときは目を合わせて、学生の質問には丁寧に答えて最低限体を向ける。人間同士が喋るときの基本的なマナーを守ることがまずは信頼関係の第一歩だろう。

 

 

期待とプレッシャー

期待はプレッシャーに変わるときがある。その変化は難しいけれど、期待に焦りだとかそういったものを加えることでプレッシャーへとなり替わるのだと思う。そしてプレッシャーには不信感、不安感、そして監視なんていうのも入ってくるのではないか。

 

期待が期待であり続けるには信頼関係がないといけない。そのうえで安心感が当事者間になければならないと思う。それは思ったよりも難しく壊れやすい。どちらか一方が簡単にそれをなくしてしまいがちだからだ。適度な期待、適度な信頼感。そういった距離の測り方はまだまだ自分には全然身に着けられていないものだ…。自分の周りにいる人などを参考にしながら少しずつ学びたい…。

 

おわりに

 子どもは親の背を見て育つとかそういうわけではないけど、人は人の背を見て判断するというか、普段の立ち振る舞いとか態度を見てその人がどういう人物であるかを評価する。そしてその評価に沿った行動をすると思っている。その評価は無意識に行われるはずだ。だから第一印象を大事にとはよく言う。

 

「この人は自分を見てくれない」「この人はわかってくれない」「この人は助けにならない」というレッテルを貼られてしまうのは痛い。逆に言えばそのレッテルが貼られていると理解できる態度をとられると思っている。自分に対してそれはメッセージになる。

 

要は相手がなぜそのような態度を”とっているか”ではなく”なぜ見せているか”ということがポイントではないだろうか。自分に向かって無意識にでもメッセージを送っていると考えると考え方や対処法が変わってくると思う。 逆に考えれば自分も相手や周囲に対してどんな態度をとってしまうのかということも考えないといけない。そんな風に今は考えている。有名な歌じゃないけど、すべてのことはメッセージなのかもしれない。