かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

店員さんへの距離感で自分の体調を測る

 

他人にどれだけ余裕があるか

基本的に店員さんには愛想よく、なるべく元気に話しかけることを心がけている。なるべくなら元気なお客さんを接客したほうが元気が出ると思うからだ。無言のお客さんばかりだと店員さんも元気がじょじょになくなると思うから、できるだけ人間らしい受け答えを心がけている。

 

元気でいつも丁寧語で対応するのは別に店員さんに好かれたいとか嫌われたくないというわけではなく、ある意味”鏡”のように扱っている部分がある。自分が外側の人々に対してどのような態度をとっているのか、健康度はどれくらいかを測るためだ。

 

例えば忙しい朝にコンビニとかによって買い物をするとする。頭の中はいろんなことでいっぱいで、眠たく何も考えたくない…。そんな状態では口から声を出すのもおっくうだ。だから無言でお金を出してちょっと頭を下げてお会計…なんてことはざらにあるかもしれない。

 

一日の終わりにちょっと外でご飯を食べるときも疲れ果てて明日が憂鬱だったり、その日になにか嫌なことがあってイライラしていたら周りに気を配る余裕なんてない。だから店員さんにも少しトゲがあるような対応をしてしまうことになりかねない。

 

日ごろ外で出会う店員さんというのは自分が外部の人にどれだけ余裕があるか?ということを示しているのだと思う。店員さんにさえ余裕を見せられないのならば相当疲れている、精神的に不安定である証拠になるだろうと思う。自分自身が果たして健康であるか、ちょっと今の行動はまずくはなかったかと身を引き締められるのだ。

 

人間は外に向かえば向かうほど関心が薄れていく動物だ。内側、つまるところ親族だとか大切な人だとか…そういったところに最も力を注ぐ。外側には注いだ後の残りでの対応となる。あまり外面ばかりの体裁を整えようとするのも逆効果だが、どれだけ外側に対して対応できるかでその人の心を測られる場面もあると思う。それはある意味精神的な装いの部分だと思う。自分の中での身だしなみという風に思っている。

 

おわりに

店員さんに優しくする理由はもう一つある。父親が店員さんに横柄な態度で話したり母親が厚顔無恥な願いをぶつけたりしているのを見てこうはならないぞと子供ながらに思ったからである。それはもしかすると大人なりの経験だったり客としての権利だったかもしれない。

 

けれど自分は一歩離れて、そのうえで礼儀を忘れないように一対一の他人という関係で店員さんを見ようと決めたのだ。店員と客という立場ではなく、あくまでただの自分と他人との関係としてみる。そのうえで自分が客ということで話をする。そんな風に考えている。