かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

人と目を合わせるのが苦手だったけれど

 

眼を見ない

昔はコンプレックスと言えるものがたくさんあって、その中でも複雑だったのは人と目を合わせることが苦手だったことだ。どうも人と目を合わせるという習慣もついてなくて、自分に自信がなかったこともあり自然と目を合わせない生活に慣れてしまっていた。

 

目を合わせないで生きていてもそれとなく注意されることはなかった。あまり目が合っていないと認識されないのか、それともわかっていながら特に言われなかっただけなのか。わからないけど、人のことを顔を見て認識していなかった気がする。だいたいの体つきとか声とかであいまいに認識していた。

 

けれど面接の話などが中学でもほんの少しあって、仕方なく人と目を合わせる訓練をせざるを得なくなった。人と目を合わせるのは非常に苦痛だった。その人の顔を見ると怒っているのか、何かを求めているのかを逐次見なくちゃならないからだ。人の顔にはたくさん情報があって、それを自分で推測して怯えてしまうのをわかっているから嫌だった。

 

以前にも書いたけれど人の声や顔には思ったより多くの情報が入っているから戸惑うのは当然だ。おまけに目は口ほどにものを言う、なんて言葉もある。人間何かを隠したいときは手を後ろに組んだりと体の動きにも反映される。だから本心や自分を見られたくない時はきっと自分も人の目を見たいとは思わなくなるのだろう。

 

時間による解決、もっと具体的に

気持ちが変わったのは…自分が少しだけ大人になったからだと思う。といっても精神が大人になったわけじゃなくてきっと体の成長で対応できるようになったのだと信じている。体がほんの少し刺激に耐えられるようになったのだ。いや、むしろ少し痛みなどに鈍感になったのかもしれない。人の顔を見るときも心配する気持ちだとか、そういう気を配るのにも疲れたのだ。

 

なにより目を合わせようとするのではなく自然と体全体を見るようにする、そのうえで顔というもので認識する。なんていうか、目、口、顔色、手…そういったパーツごとにまで気配りせずにぼうっと全体を眺める感じだ。そういうこまごまとした部分に気を取られると緊張しやすいと気付いた。

 

場慣れとか場数を踏むことでどうにかなるという根性論もあるかもしれないが、もっと優しく、それでいて怠惰なのはきっと時間だ。自然と体の成長と衰えが混じり、そのうえで自分を少し認めてあげることでちょっとだけ前の自分よりもたくましくなれるかもしれない。

 

あまり前向きなアドバイスではないかもしれないが、要は外部の刺激から鈍くなるようにすること。不安になったり心配する気持ちは神経が高ぶっていて、すごく敏感な状態であるからだ。だからできるだけ鈍くなるように心掛ける。そう簡単に鈍くはなれないけれど、時がたてば自然と鈍くなることもある。時間がたってなぜかできるようになることもあると思う。

 

おわりに

世の中にはわりと即時の解決策をばりばり書いてあることが多い。こういった人と目を合わせるコツ、みたいなのには相手の首元などに目を合わせると楽だぞと書いてあったりするけどそれで解決だろうか。ただ、そういった回答はやはり急患のものであってある程度の効果と即効性は保証されるが恒久的なものではない。

 

じゃあ恒久的なモノって何だろうと思っても根性論や精神論、経験を積むこと…要はやってるうちに慣れるという体育会系な結論が多いと思う。でも多くの場合は時間がたつにつれて老いることで自然と感覚に対して鈍くなることが客観的に見て勇気を持った人に見えることもあるかもしれない。それは恥とか危険に対して新鮮な感覚を鈍らせているからじゃないだろうか。そしてそれは自然なことで、悪いものでもないと思っている。