かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

おばあちゃんと葬式とカレーと

 

はじめての葬式とカレーと

今週のお題「私のおじいちゃん、おばあちゃん」ということで、おばあちゃんの葬式の話をしようと思う。自分が小学生ごろ、おばあちゃんの葬式があった。以前から会ってはいたけれどベッドでほとんどの時間を過ごしていて、あまり面識があったとはいいがたかった。なんとなくこういう人、という漠然とした理解だったけれどおばあちゃんは大層かわいがってくれた。出会うたびに何かを施そうとしてくれるのだけれど自分は戸惑ってばかりだった。

 

そんなおばあちゃんの葬式だったわけだが、周囲の人々はどこか落ち込みつつも明るさと少し快活さを持っていた。葬式の雰囲気は故人が生前どんな人だったかを表すのかもしれない。みな、悲しみもありながらそれでも笑顔だった。

 

葬式で子供である自分にとってよかったところ(葬式に良いも悪いもないが…)は大変現金だけど”ごはん”である。夕食は人生でもっともおいしかったカレーと巡り会ってしまった。参列者の方々が夕食を協力して作っていたらしいのだが、特にカレーはあっという間になくなるほど素晴らしい出来だった。

 

小学生の自分は人生で初めてカレーを3杯ほどおかわりして両親に「不謹慎だ」と怒られた覚えがある。けれど周囲はそんな自分を「いっぱい食べて育て」と大いに笑ってくれたのは少し照れた。4杯目も食べたかったが両親の睨みに負け結局は空になってしまうのを待つほかなかった。

 

そんな悲しさのかけらもない自分は周囲からすごく浮いてしまっていた。人が死んだということを知らなかったのである。誰が死んだのかすら認識があまりできていなかった気がする。今、大人だからわかるけれど”二度と会えない・話せない”という悲しみを想像ができなかった。

 

おばあちゃんのことも少しは覚えているけれど、でも特徴だったことは思い出せない。名前だって実は知らなかったのだ。それはすごく申し訳ないことをしたなと大人の今ではすごく思う。けれど小学生なんてそんなものだった。

 

葬式の空気にも合わず、仕事もできない自分は忙しい両親から邪魔者扱いされるのも当然で、どこか大人のいない場所を見つけるためにあちこちうろうろしていた。座布団の間に挟まれてみたり、隠れてみたりしたけれどじっとしていろと怒られたり散々だった。

 

葬式はあっけなく終わり、季節も廻って大人になったころに両親から様々な話を聞いた。そんな中で今でも残っているものがあった。おばあちゃんは編み物が好きだったようでその制作方法は母へと伝授されたようだった。ある意味でそれはずっと生きてるってことで、なんだか故人を偲ぶような気持になる。それよりもおばあちゃんもうれしいだろうなあなんて思ったりした。そうやって脈々と受け継がれていくものがあるというのは良いものだと思う。