かやのみ日記帳

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いじりは会話ではない

 

いじりは便利だから

人のことをからかったりいじったりを続けることは会話ではないと思う。たまにボケたりツッコミどころがあったり、天然だったり、いじられキャラの人がいると思う。そういった人たちをよくいじる人たちもいるけれど、決してそれは会話じゃないと思っている。

 

いじりとは相手に対して一歩踏み込んだアクションのように思う。わりとセンシティブな部分だったりを踏み込んでさらけ出す一連の流れを楽しむものじゃないだろうか。またあることに対して強調したり婉曲したりして違った形にすることで楽しむこともあると思う。

 

けれどこれらは正常なコミュニケーションじゃなくて、あくまでいじる側のアクションであり、しかもある程度会話という双方向の流れから逸脱するものじゃないだろうか。あくまでいじる側の立場からいじられる側へのアクションのように思う。

 

ここで頑なにアクションと言っているのは会話というのは基本的にうなずきとか受け入れるとか反応するかしないか、反論するかしないかを受け手が選べると思うのだけれど、いじりにはあまり選択権がないように思うからだ。いじりは相手から反応を無理やり引き出そうとする、もしくは反応を勝手な解釈でもって楽しむ”行為”だと思うからだ。

 

だからいじりを会話していると勘違いしている人は怖いなあと思う。上司の立場で部下をいじって、かわいがっている、会話している、コミュニケーションしていると思っている人がいそうだ。けれど基本的にいじりとは相手の反応をこちらが都合よく解釈したりする行為なわけで、あまり相手への配慮をその行為から感じ取るのは難しい。

 

もう一つ辛辣なことを言うと、いじりで会話している、コミュニケーションしているという人は上手くいじれている、そしてうまくいじれているから場を面白くしているという気持ちになりがちだと思う。まるで自分が全てをコントロールしている気分にもなるのだ。まるで猛牛をうまく扱えることを周囲に自慢するように。

 

が、結局のところ自分はいじりは会話ではないと思っているのでいじりばかりの人は実はコミュニケーション能力が低いんじゃないかと思う。コミュニケーション能力とは相手と会話できていると感じる能力ではなくて、相手とお互いに情報をやりとりすること、相手と対等に話し合えること、相手の心理状態について把握して自分が今どのあたりでどのように踏み込んでいるかなどを感じられることが大事じゃないだろうか。

 

おわりに

人間しっかり待つというのがかなり難しい。子供に対して何が言いたいの!と怒鳴ったりする親が多いのもそのせいじゃないだろうか。どこかで見たけれどおじいちゃん、おばあちゃんはのんびり待ってくれる余裕があるため子供の話したいことを一心に受け止めてくれるから懐きやすいとかなんとか。

 

昔からことわざがあるけれど、聞き上手は話し上手である。うまく相手を待ち、受け止めることができればひとまず話し上手。その受けの姿勢から、うまく質問を作って相手にさらに深く話をさせられるようにできると達人なんじゃないだろうか。

 

どこかの研究か何かだったと思うけれど、うまい質問をして相手に喋らせたとき、相手はその人とたくさん会話ができたと感じる確率が高いのだとか。それはもちろん相槌の数も関わっていると思うが、実際にきちんと受け止めてくれたほうが”会話”したという気分になりやすいのだと思う。

 

いじりも行き過ぎるとあまりいい結果にならないと思う。いじりは強力で場を和ませたりむしろつまらないもの、すべったものを拾ってあげてると思うときもあるかもしれないけど、基本的には応用テクニックだし強引なものだという気持ちを持って乱用しないように心掛けたい。