かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

Whyがないものには魅力がない、続かない

 

なぜ?が一番大事

ちょっと好きだなあと思う言葉が「人間はシェアしたがる動物である」というもの。これはTwitterとかSNSか何かのサービスについてそもそも何を目指すのか、何がいったい価値なのかを再定義したものだったと思う。そもそも人間はシェアしたがるのだからシェアする機能を十分にできるサービスにしようというわけだ。

 

こうした製品そのものの方向性を決める、ある種の軸というか信念というか、根幹となる価値観みたいなものがわかると感動する。その信念に基づいてやることとやらないことを明確にして成長していくからだ。そうしたものが見える製品には共感する人が集まりやすいと思う。

 

逆に言えばそういう精神を人々に共有してその価値観を守れるサービスや製品が生き残るのだと思う。Twitterはそもそもつぶやくものだが、つぶやいたものは人々にすぐにシェアされる。

 

Googleの価値観ってなんだったっけ?と思って調べるときちんとすぐ最初に出る。Googleについて。そのままのものだが、なんと検索ページの要約にずばり書かれている。情報を整理してそれを使いやすくすること。検索エンジンにとどまらない理由がここにある。

Google の使命は、世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにすることです。 

Google について | Google

これくらいすっきりとしていると本当にわかりやすくていいと思う。なにかかっちょいい企業理念やお題目、社会貢献などをずらずらと並べ立てるよりも、なぜその会社や製品は存在するのか?という言葉に応えられるものであってほしい。なぜ存在するのかに応えられるような理念は少ないように思う。

 

Whyから始めよ!

こうした理念を感じられるようになる、理解できるようになると一気にわかることが増える。逆に言えば理念のない行動や製品については「なぜ?」という疑問に答えられていない状態なのだと思う。ここらへんは名著「Whyから始めよ!」に影響されている。

WHYから始めよ!―インスパイア型リーダーはここが違う

WHYから始めよ!―インスパイア型リーダーはここが違う

 

 TEDでもかなりの人気を誇っていて、それでいて情熱的かつ簡潔にまとまっているからぜひご覧いただきたい。ただ一度見てしまうと体がWhy?を求めるようになってしまう。いかに日常にWhyに応えられるものが少ないか!

 

www.ted.com

この動画では何度もいうようにすべてはWhyにたどり着かない限りまったく無意味だし、すべてはWhyから生まれるのだと説く。なぜやるのか?という疑問に答えられない限り、すべてのHow(どのようにやるか)、What(なにをやるか)はあちこち理由もなくふらついてしまい説得力がない。

 

逆にWhy(なぜやるか)がしっかりと定まっていればどのようにやるか、なにをやるか、そして難しいものである”やらないこと”を決められる。やらないというのは多くの場合痛みを伴う。やらない=損失のように感じてしまうからだ。だからよっぽどなら”やらない”にはきちんとした理由が必要だ。つまりWhyである。

 

例えばある製品を売り出したいときにより多くの販路を持ちたいとする。たくさん営業をかけて宣伝をして…でも、それをやらないのならば更に製品をブラッシュアップすることや今後の新製品開発に力を入れられる。今売れているもの、そしてこれから売り出そうとするものを更に売れるようにするか、新しい方向に向かうか。どうしたらよいのか。

 

こういった判断にはWhyが必要だ。そしてWhyには納得感がないといけない。じゃなければわけがわからずやるはめになり士気は低下するし、なによりまともな改善策なんか出てこない。だってやる理由がわからないし、続ける理由もゴールもわからないから。ただやらされることにはWhyが足りない。

 

なんでもWhyに応えられるようにする

これは一人の作業などにも当てはまる。なぜそれをやるのか、やらないのか。自分にとってはなぜブログを書くのか、書かないのか。今日は書くのか書かないのか。そういったことは自分の中でWhyを探して答えないといけない。

 

研究だってWhyがもっとも中心である。なぜそれをやったのか?なぜその結果が得られたのか?そもそもこの研究はなんのために存在するのか?それに答えられない論文には価値がないし、なによりも学生などがこれに応えられないというのは致命的である。それは研究の最も肝の部分を知らないことになるからだ。それは研究ではないと思う。ただの作業とか宿題とかやらされているだけだ。

 

研究を自分のものにするにはまずWhyをそこらじゅうに問いかけて自分のWhyを得ることである。そのWhyが間違っていないか、もしくは何度も修正して確固たるものに仕上げていくことである。研究などではなんどもなんども間違い修正が必要になるけれど、Whyを信じてやっていかないといけない。

 

自分がなぜ頑張っているのか。今なにを、なぜやっているのか?常にWhyを過酷に、孤独に問い続けられるのが研究のような気もする。自分がWhyを得ないといけないからだ。人から与えられたものでは長続きしない。自分がなぜWhyを信じられるのか?それは自分でこういう理由で…と幾度もWhyが続く。教授に教えてもらったからでは浅い。逆に何度も修正を繰り返して掘り続けたWhyはぶれにくいし強い。そう思う。

 

 おわりに

Whyから始めよ!はなるほど自分が求めていたのはこれだっ!と非常にすっきりして小躍りした。今まで自分がいったい何を欲しがっていたのかがはっきりとわかったからだ。自分は自分の行動とかやりたいこととかにWhyが欲しかったのだ。それを周囲にも少し当てはめていた。

 

Whyは驚くほど熱量が籠っていると思う。というかすべての行動の根幹がWhyから始まるのなら、そりゃもちろん一番熱いところ、おいしいところ、心臓部そのものである。だからこそみんなWhyに飢えている。それで研究なんかでは「この研究はなぜ?」と聞くのである。だってそこが一番おいしいのだから。 

 

自分は自分の中でいっぱいWhyを持っていると満足する。自分の行動に対して安心できるからだ。自分の進路決定などや人に対して説明するときには最もWhyを重視したい。なぜ自分はそれを選んだのか?

 

そしてこの質問は自分にもいつも跳ね返ってくる。それは○○だから。その答えが間違っていたとしても、その理由から行動した、と後でわかるから納得して反省して次に活かせる。なぜやったのかわからないんじゃ、当然改善もしようもないのである。