かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

大学教育は生き延びられないことに気づけなかった、測られることに慣れすぎた日本人

 

大学だけじゃない、今の日本人の性質

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最初は軽く流し読みするつもりだったのだけれど、進めば進むほど絶望度が増していったため全部じっくり読んでしまった。

 

要約してみるなら、大学の存在は市場によって価値を測らせようとした。それによりお上の命令から離れ自由な教育、研究ができると信じた。ところが市場が求めたのは統一のものさし。だが統一なものさし=画一的な教育、研究で視覚化できる成果だった。研究や教育は成果がでないもの=未知な分野なので、そういった分野は切り捨てられる。

 

後に残るのは競争激化した分野に大量に人がなだれ込み、そこそこの成果をあげるだけ。新しいものが生まれず、結果として衰退していく。大学自体が大学を測ろうと頑張っても、測るだけのコストに見合った結果なんて得られるわけがなかった。

 

特に突き刺さったのは次の部分。

もっと広いところで、たくさん競争相手がいるところに出てゆきたい。正確な格付けを求めてそうするのです。競争相手がたくさんいる領域に突っ込んでいって、低い格付けをされても、それは自分のようなことをしている人間が自分ひとりしかいない環境で、格付けされないでいるよりはまだましなんです。

狭いところで「あなたは余人を以ては代え難い」と言われることよりも、広いところで「あなたの替えはいくらでもいる」と言われる方を求める。それは自分の唯一無二性よりも自分のカテゴリー内順位の方が自分のアイデンティティを基礎づけると彼らが信じているからです。「そんなことをしているのは自分しかいない」という状態が不安で仕方がないのです。

「みんなやっていることを自分もやっている」方がいいのです。たとえどれほど低くても、精度の高い格付けを受けている方が安心できるのです。これは現代日本人が罹患している病です。そして、日本の大学もまたそれと同じ病に罹っている。 

現代の日本人はあまりに評価、格付けされることに慣れきってしまっている。他人と比較できるだけのものをもって、他人より少しでも高い評価を得て、その評価で人に判断してもらおうと努力する。受験なんかでも偏差値はたくさんでるし、たしかに身に覚えがある。

 

 評価されないことというのがみな不安というのは自分にとってすごく反省したいところだった。少しでも評価されようと努力していた気がする。就職活動でもそんなものをゴテゴテつけなきゃならない。ボランティア、海外活動、サークルリーダー…。他人から見たわかりやすい評価をみな身に着けたがる、みな欲しがってしまう。

 

それに加え日本独特の村社会、階級的な意識がこういった評価を良しとしてしまう。努力の足りないもの、頑張っていないもの、そういう風にみられる人間は周囲の人間からも社会からも貶められる。そして貶めることを周囲も良しとする。

これは例えば生活保護を受けてる人がパチンコやったら許さないとか、芝居や映画見に行ったら怒るとかいうのと同じですね。主婦が子どもを保育園に預けて演劇見に行ったら、「ふざけるな」と怒鳴る人がいる。意地悪なんです。それが社会的なフェアネスだと本気で思って、意地悪をする。異常ですよ、皆さん。でも、日本はもうそういう異常な人が自分のことを「異常」だと思わないくらいに異常な社会になっているんです。

どうしてこうなってしまったのだろうか。新しいことをする人に投資するのではなく、失敗をしないたくさんのものさしを身に着けた人間を信頼し、そこに縛り付けるような仕組みになってしまっている。いつのまにか日本は失敗する人間に厳しいだけじゃなく、ものさしで測れない人間を淘汰するようになってしまっていたのか。測れない価値は無益なのか。

 

日本独特な管理思考、失敗を責める同調圧力、忖度…。まさしくランダムさ、新規性を殺す取り組みによって間違いなく死んでいっている。そのことをきちんとした文章で書かれていた。それに気づかなかった自分も相当毒されていたのだなと思い、なおさら悲しくなった。

そんなことをしているんですから、日本の大学に未来がないのは当然なんです。多様なできごとが無秩序に生起している場所でのみ、それらのうちで最も「生き延びる」確率の高いものが際立ってくる。「ランダムさのないところに新たなものは生じない」(Without the random, there can be no new thing)。これは『精神と自然』の中のグレゴリー・ベイトソンの言葉です。日本の大学教育はまさにその逆の方向に向かって進んでいる。でも、すべてが規格化され、単一の「ものさし」で比較考量され、格付けされるところからは、いかなる新しいものも生まれません。

 

 

おわりに

ちょっと前に日本企業のおかしい点として「育休取得を周囲が恨む」ということに関して”失敗の本質”で語られた日本独特の組織構造による失敗について書いた。

kayanomi.hatenablog.com

日本の残念なパターン化された大失敗コースは

現場の超人的技能により瞬間的成功(戦術レベルでの成功) 

上が超人的技能を全ての人に常に求めるように

超人的技能が育たないのは精神力、努力不足

そのうち戦略的失敗を現場の努力(戦術)でカバーしようとする

現場がばたばた倒れ、技能が最低レベルに

戦略的失敗を認めないので現場の努力に依存し続ける

戦略の改善のしくみがないため失敗の輪は続く

という感じだ。教育もきっとこの仕組みがずっと続いているのだろう。やっぱり失敗の本質からなんにも学んじゃいないのだ。日本人は戦術の成功を求め続け、戦略の失敗をこれからも後悔し続けるのかもしれない。そして個人個人の失敗を責め、組織的な失敗には目を向けられないし、なによりも上には言葉が通じないのだろう。

 

言いたいのは、これがもし小さい輪だとしたら簡単に逃げられるだろう。例えば料理教室でなんの器具も使わずおいしいものを作ることを至上目標とし、何十時間と練習して資格まで取るとか。あんまりうまい例えじゃないが、やっぱり戦略的失敗は戦術的成功では覆らないのだ。個人の凄まじい努力では組織の失敗はカバーできない。

 

では組織の失敗を回復するにはどうしたらいいのか。新しい組織を作る、既存のシステムを組織自身が見直せるようにする…。そしてそれは組織に属する個人がやはりひたすら頑張ることではないのだ。なぜならそれは…結局のところ組織の失敗を特定個人がカバーしようとする、戦術的なものに近いと思うからだ。そこがやっぱり絶望な気もする。

 

言ってしまえばその縮図がブラック企業のような気もする。嫌々仕事をするか、悪態をつきながら他人を責め蹴落とすか、変えてやると努力するのか。あんまり言いたくはないし自分自身もあんまりその結論に至りたくはないのだが…。まあブラック企業から個人がどうすればいいかはきっと簡単な方法があるように思う。なんとも悲しいことだ。


もしかするとそれが記事中に紹介される”立ち去り型サボタージュ”なのかもしれない。