かやのみ日記帳

読書の感想や思想を書いています!

人を無暗に裁かないということについて

 

感情、直感、習慣という基準

自分もよくやってしまうのだが、いつのまにか人を自分の基準で裁いてしまうことがある。しかも短絡的にだ。例えばエスカレーターで行列ができている時に割り込みをされるとかなりムッとする。列も守れないなんて最低であると。よくあることだと思う。

 

けれどもこの割り込んできた人がトイレを我慢していて急いでいたとしたら?ちょっとは許せるかもしれない。自分ももしかしたらそういう経験があって、その時はとても申し訳ない気持ちになっていたかもしれない。さっきとは判断が変わってくる。

 

要は相手の事情を考えずに短絡的に悪と裁いてしまっている。しかも自分の基準でなので容易に判断はころころ変わってしまう。だから自分はなるべく人を裁かないように注意している。これは昨今のニュース報道の在り方に影響を受けているかもしれない。

 

ニュースでは逮捕されればすぐさま悪い人であると伝わるように報道する。新聞記事では写真をわかりやすく悪人らしく仕立て上げたりだってする。すると自分の直感とか感情、第一印象で簡単に見知らぬ他人を裁いていることになる。みんなが悪いと言っているから悪いという具合に。

 

裁いてばかりじゃ疲れる

けれど冤罪の可能性だってあるし、事態は報告されていることよりもずっと難しい繊細な問題だってある。だからある程度は自分の感情や基準で裁かないよう気を使っている。逆に言うと、裁いてばかりじゃ疲れるのだ。悪を自分から増やすと世界は敵だらけだ。

 

人が人を裁くのではなく、法が人を裁くのが法治国家であると思う。そこまでお固くはないけれど、他人に対して自分の感情で裁きすぎないようにしたいと思っている。人間が正しくあることを他人に強要してしまうことになりかねないからだ。

 

人の行為に対して悪とかそういったものは神様が適当に裁いてくれればいい。いますぐじゃなくていい。自分が判断することじゃなく、神様は見守ってくださるからいいやとする。そうすれば自分自身も人が見てないからやっちゃえという気持ちも少し減るんじゃなかろうか。

 

自分を他人から裁いてもらう必要もない。あなたは善ですとか自分は善です、お前も善になれと言う必要はない。そもそも人間の善悪を人間が決めないことが平穏につながるのではないだろうかと思っている。

 

おわりに

一般に悪な行いをされたとき、もしくは自分の判断で相手に過失があると考えた時、それについて非難したり激怒するのも普通だとは思う。けれどそれを乗り越えて建設的な話し合いができるといいなと思う。

 

例えば宿題を忘れたから見せてほしいと5回言われたとしよう。さすがに怒ってもいいかもしれない。自分のことを利用しすぎている、忘れすぎ、やる気がないなど。これは相手に非があり、自分は責めてよい立場だと自分が思っているからだ。

 

まあこんなに仏の心をだすのも大概と言えば大概だとは思うが、結局のところ怒るというのが自分はとっても面倒かつ嫌なのだ。そんなことに感情エネルギーを使いたくないし、酷く非生産的で人類の繁栄にいささかも貢献しない。そういったものが嫌なのだ。

 

だから宿題を忘れたという人には(自分が宿題をやってきた場合)見せてあげようとする。その際に問題解決の手伝いをする(親しければ)。例えば一緒に解こうとする、忘れないようにリマインドする、本人のやる気をあげる手伝いをする、宿題を写すと損をするということを教える、はっきり断るなど。

 

自分が損をしていると感じるならばお金やごはんと引き換えでもいい。ただし、この場合は心理学的に悪い方向に向かう。保育園に遅刻してくる親御さんに罰金を科せたらますます遅刻が増えたという。この場合遅刻の罰金がまさかの延滞料金に変わってしまったのだ。なので宿題などにお金をトレードオフするのはオススメしない。

 

できるならば問題はみんなで解決するのが一番だ。自分も負担が減るし、相手も少しばかり幸せになるだろう。そうすれば人類貢献度+2である。おおげさかもしれないけど、周囲の幸せの積み重ねって大事じゃないかなと思うから自分はこうやって生きていきたいと思っている。

 

相手の努力不足とかそういった風に責めるのが普通になってしまっている世の中は自分は寂しいと思う。そうじゃなくて相手の問題解決をいっしょにして、幸福度を2倍にできる世の中はきっともっと幸せになるんじゃないだろうか。