かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

なぜ現実で声を上げずそっとブログに書くだけなのか?という問いに対する自分の答え

 

なぜブログ記事のような熱いことを現実では言わないのか

たまに人から親切なアドバイスらしきものをいただくときがある。それをぜひ自分の所属しているところに還元してみてはいかがか?と。例えばそれは大学だったり会社だったりするわけだ。こういったアドバイスをいただくとき、自分はちょっとした後悔を思い出す。

 

自分は大学がとても大好きで、研究室もとても大好きになって卒業した。それはとても得難い経験で、自分の大学でしか味わえない貴重な経験だと思っている。自分の周囲の人、大学の環境、教授。そういったものが自分にとって素晴らしいものだった。だから自分には大学に返せない恩があると勝手に思っていた。

 

ある時、ボランティアの募集があった。高校生の進路相談みたいな企画だ。自分はそれはいいなと思ってやってみようと思った。自分の体験した気持ちを少しでも伝えたい。大学のために少しでも役立てられるなら、高校生の気持ちを少しでも動かせたら、と。

 

無名の人に時間を割く価値などない

そんな風に思っていた気持ちはあっさりと折れた。高校から断られたのだ。そんな時間はないと。というか自分の大学はお呼びではなかったのだ。あまり偏差値も高くない。世の中にはもっと偏差値が高く世間ウケするいい大学がごまんとある。

 

なによりも自分が痛感したのは自分が”無名”であるということである。誰が無名の人間の体験談なんか聞きたいと思ってるのか。それは確かに思い上がり。時間の無駄だ。話をした後に呆然として、悔しくて、自分がいかに間抜けか悲しくなった。なにが大学のためだ。自分が悦に入ってただけじゃないのか。

 

少しでも大学に貢献したかったという気持ち。高校生に伝えたかった気持ちなんて自分のひとりよがりにすぎない。いわば老人の「若かった頃は…」と同じくらい迷惑がられたのだろう。まあマーケティングの失敗というか、なんというか。自分がいかに無力な人間かを思い知らされた。

 

古くからよくある話として会社を変えようと一人で頑張って上司に認められず疲れ果てて辞めるみたいなものもある。お風呂のお湯を手でかき回して温めようとするのと似ている。お湯がでかすぎて熱が伝わらず冷めるばかりだ。そういったことは小さなコップでやるか、もしくは新しいコップに沸かした水を入れたほうが早い。

 

ネットでは必要な人が来てくれる

自分の声がいかに小さいか。そして大きなものに対して声を上げても全然意味をなさない事。その無力さを強く学ばされた。だから現実ではあまり声を出さないようにしている。

 

でも現実世界の誰にも声が届かなくても、人に気持ちを伝えて心を動かすことが1ミリもできなくても、ネット上でささやかでも公開することでもっと大きなことができる。自分の大学教授との付き合い方の記事はまさしくそう思わせてくれた。

 

最初は本当にささやかながら大学生に少しでも役立てればと思って書いた記事だった。自分のメモ書き程度だったし、そんなに読まれないだろうと思っていたけれど思った以上に読まれて本当に嬉しかった。

 

ブログは自分から売り込みに行くのではなくて、相手から来てくれるタイプだと思っている。自分の構えたお店に来てもらえるようなものに近い。だからすごく救われてるなと思う。自分のどこにも言えない感謝の気持ちはネットのみんなに拾ってもらえたのだ。本当に感謝している。

 

実は自分の大学の人たちのtwitterでも少しだけ言及があったのを知っている。だから…自分が得られたものはきっと巡っていったのだと信じている。少しだけでも恩返しできたんじゃないかと勝手に思っている。そしてそれよりも多くの人に見てもらえたから現実よりもずっと満足だ。そういうと引き篭もりすぎだろうか…?

 

ともかく、これからも自分の人生で得られたものは無記名でそっとネットに放流しようと思う。こういうのはきっとめぐりめぐればいいのだ。自分で何か一方的に頑張ろうとしても空回るだけと悟った。自分にはこれぐらいでちょうどよいのだと思う。