かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

母の料理を褒めたら食生活が改善された話。

 

 

流れてきたツイートを見て自分も経験したな…と思い出したので書いてみる。自分が小学生の頃だ。当時の食卓はスーパーのお惣菜やらコンビニ弁当、お持ち帰りの製品ばかりで手作りのものが食卓にほとんどなかった。母親が手作りでは面倒くさいと思っていたのと文句がでなかったことに起因する。父親は大変無口で確かにおいしいともおいしくないとも言わない。子供の自分も厄介なことは言わないように生きていたので特に感想を伝えることはなかった。

 

ただ、ある時めずらしく手作りのコロッケが出てきた。ずんぐりと大きくて、ぱっくり割れてしまっている。お肉の含有量もとっても少なく体積の90%くらいがじゃがいもで、残りが皮と肉という具合のコロッケだ。母は実家から料理の本が送られてきて、めずらしくチャレンジしてみようと思ったらしい。見た目が悪いことを謝っていて所在なさげにしていた。

 

で、食べてみるとほっくほくあっつあっつだ。そしてじゃがいもの自然な味わいと衣にほんのりと染みた油とからっとした小麦、そしてほんの少しのひき肉が絶妙にマッチしていた。一口食べてみて、じゃがいもがおいしかったせいかもしれないが、めっちゃっくっちゃウマーイ!!!と叫んで飛び跳ねて喜んだ

 

母はまさかそこまで喜ぶと思っていなかったようで、過剰な反応だと訝しんでいたのでしきりに食べてはアピールした。こんなにほくほくでアツアツでおいしいものを食べたことはないという感じだ。これ、どういうことかというとスーパーの総菜ばっかりだったからだ。

 

スーパーの総菜の揚げ物の衣はすっごくしなびている。どうあがいてもしなびている。いくら温めようと、焼こうと残念ながら揚げたてにはならない。天ぷらとかフライドチキンの総菜も全部、揚げたてじゃない。それをずっと味わってきたから、揚げたての家庭料理にとっても感動した。この感動を全身で伝えないといけないと直感していた。

 

父親は首をひねってまあおいしいんじゃない?と言っていたけど、このままだとスーパーの総菜がテーブルに並び続けると確信したので、毎日これでもいいから明日も作ってくれ、絶対に嫌とは言わないし、いつでもおいしいって言う!と子供ながらに必死に訴えた。すっごい子供っぽい台詞ですっごい必死だ。

 

その結果、どうやら信じてくれたらしく母親はめでたく”おふくろの味”を手に入れたと思ったらしい。そして、どうしてそんなに喜んだのかを聞いて相当ショックを受けた。文句を言わないならそれが好きだと思っていたらしい。沈黙は現状の肯定だった。

 

総菜で嫌いなものがあれば、買わなければいい。好きなものがあれば買えばいい。これだけで料理の面倒は一気になくなる。さらなるおいしさの追求とかは考えなくていいからだ。ちょっと母親に面倒を押し付けてすまないな、と思ったけど気が付くと新しい趣味に昇華していてびっくりした。

 

次に母が挑んだのは自家製まぜごはん。ごはんを炊くときにつっこめばとりあえずできるのでこれも(自分には)大好評だった。その次は唐揚げ。これは市販の唐揚げ粉を使ってがんばっていたのだけれど、残念ながらコロッケには勝てなかった。揚げ物を使うとコロッケに敗北すると悟った母は、お菓子方面へと活路を見出した。

 

お菓子作りに精を出した母はなんとスイートポテトクッキーを生み出した。このことは大変衝撃的で、こんなに素晴らしいものを母が作ってくれるなんて…と崇めていた。ただ母親は父親が何も言わないのに拗ねてしまった。それからは父の分が小さな子供の体に収められることになった。

 

ただ、もらえるはずのものがもらえないのは痛かったらしい。そこに至ってようやく感謝する大事さを覚えたらしく、食卓のいろどりがどんどん変わっていった。それぞれ夕食のリクエストがでてきて、スーパーの総菜はほとんどみないことになった。というか総菜が出ると手作りがいいと不満げになってしまうので、おいそれと出せなくなってしまったというのが真相だ。わりと舌が肥えてしまったのであった。

 

それからは手作りの料理を食べるときは毎回感想を作ってくれた人に伝えるようにしている。おいしいよでも、ちょっとしょっぱかったかなでも何も言わないよりずっといい。そして労をねぎらう、当たり前だと思わない気持ちが大切だと思う。なによりおいしかったら気持ちよく食べる!これに尽きるはずだ。