かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

自分の情熱に怯える

 

自分のことを情熱的な人間であると表現されると怖くなる。自分にとっては普通のことなのに人とは違うと言われているようなものだからだ。自分は普通であると信じていたい。それは特別だったり変だから情熱があるわけじゃないのだ。情熱にだって理由がある。

 

勘違いされているのかわからないが、一見して情熱的に見える人はなぜそこまで情熱があるのかを不思議がられる。そしてそれを特別なもの、その人にしかないものであると判断される。情熱を持っているのは貴重であり不思議であると。でもそんなことはないんじゃないか。

 

情熱的なのにはきっと理由がある。人それぞれの歴史がある。そこに感情が加わり、理由ができ、情熱が生まれる。その過程を説明するには時間がかかるが、説明できない情熱は早々ないんじゃないかと思う。

 

ある種の情熱には自分もまだ気づいていない大切なことや憧れなどが含まれることもある。自分は自分の情熱が希少なものではないということに情熱を持っている。誰にでもあるものと信じていたい。いつか自分の情熱がなくなるとは信じたくないし、この情熱はきっと誰かからもらったバトンのようなものであると思っているからだ。

 

情熱が歴史や環境や書物や両親や様々な人からの贈り物でなければ少々寂しいとも思っている。勝手に燃えて消えて、勝手に消えて…というわけではないだろう。そう思っている。