かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

残酷な事実をありのまま受け入れること

 

 砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけないを読んだ。

 

この小説に感想を書くのは本当に難しい。何を書こうか本当に迷った。

そして自分がいかにちっぽけか、自分勝手なのかと思い知った。

いや、思い出したというか反省した。

 

人はそれぞれ解釈できる範囲というのがあると思う。

自分にとって起こりえない出来事に正しく解釈することはできない。

言い換えれば自分の身に起きえなかったことを正しく想像できない。

だからこんな気持ちになったのではないか、そう解釈する。

その解釈の幅は人それぞれだ。そして受け止め方、考え方も全然違う。

 

この物語を読む人にはいろんな立場があると思う。

例えばこれを読んだのが子供だったら。

大きく共感して、とてもつらく悲しい気持ちになるだろう。

大人はみんな勝手で、誰もが望んでいないことをさせられ、逆らえない。

神様はどうしてこんなにもひどいカードを配って渡してくるのか。


でも、自分よりひどい立場の人を想像できない。

それは人生経験の不足でもある。正しい選択ができるほど成熟していない。

だから、何度も間違って、取り返しのつかないことにもなったりする。

 

教師の立場や児童保護の立場の人が読んだら。

こんな悲しいことは二度とさせたくないとか、現実に起きた事件を思い出すだろう。

そして自分でなにかできることはないかとか思いを新たにするかもしれない。

政治家だったら、他国の人だったら。

もっといい方法があったとか政策が悪いとか、現実を変える努力を述べるだろう。

 

例えば兄の立場に共感するかもしれない。

ただ仙人のように暮らし、刺激を受けない日々。

でも大事なときに立ち上がって守るべきものを守るために生きようとする。

その姿に勇気づけられたり、なにかを重ねてみたりするかもしれない。

 

でもそれらは本当に傷ついた立場、友達を救えなかった彼女とは違う。

彼女の痛みを想像することは決してできない。共感することもできない。

誰かに語れるような整理もつかず、そして訳知り顔で解釈なんかされたくない。

そう書いているなら、それを解釈することはできない。その痛みはその人のものだ。

 

映画グッド・ウィル・ハンティングで言われていたことを思い出す。

あなたの痛みはわかる。虐待されたりすることは大変つらいことだよね。

わかるよ、だって本で読んだから。

そんな言葉でわかりあえることはなにもない。わかったと思い込んでいるだけだ。

 

そんな言葉を思い出して、感想が書けないなと思った。

被害者の彼女も、守れなかった彼女の心情も、それは自分にはわからない。

いろんな立場でそこに起きた問題について語ることはできる。

ああ、可愛そうな事件だと思った。もっと制度を整備すべきだ。

近隣住民のつながり、学校という箱庭、教師の無力さ。

 

だけどそんなことを語ったところで、心の解釈には程遠い。

この作品で語りたかったことであろうことには、まったく届かない。

じゃあ小説を読んで、感想を書くということは一般に誤りなのか。

想像できない、してはいけないものなのだろうか。読む意味はあるのか。

 

それに対して、読む意味はある。それはありのまま受け入れることだ。

悲しいことが小説の中で発生した。それに対してこうすればよかったと思わないこと。

自分だったらこうできたのにとか現実で…とか持ち出さない。

 

ただ、起きたことをそのまま受け入れる、それが難しいことだと思う。

残酷で受け入れがたい現実のように感じられても、受け入れる。

その上で感想を書くべきなんだろうなと思う。

 

だから自分の感想は、ただ残酷なことが起きて、傷を負った人々がいて。

その傷は誰が何を言おうと、共感しようと、反省して現実を変えようとしても。

それでも絶対に癒えないものがあり、例えられないものである。

そういうことだと思った。それ以上は書けないな、と思う。