かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

子供の頃、親から「これ食べる?」と言ってくるのが不思議だった。

 

上記のつぶやきをみて思い出したことを書いてみようと思う。自分もつまらなそうに食事を観察されて急かされている気がしたけど、うーんこの画像を見て苦笑いしてしまった。大人ってなんだか不器用なところがあって振り返ってみると面白いよね。

 

子供の頃の「食べる?」と聞かれた思い出

子供の頃、外食をしている時や夕飯でちょっと珍しいものや高いものが並んだ時にじーと見てると親が「食べる?」と聞いてくるのが不思議だった。見たことないから不思議と観察していただけなのに、どうして食べる?と聞いてくるのか。別に食べようという気持ちではなく本当に気になって見ているだけなんだけどなあ…と思いつつ親は「遠慮するなよ」とか「いいから食え」などと振舞うので妙な感じだった。え、何?親として振舞いたいの?大人らしくしたいのか?とまで思っていた。

 

なんでこう…押し付けてくるかなあと内心思っていて、欲しかったら欲しいと言うからあんまり構わないでほしいという可愛げのない子供だった。ただまあ妙な好意で言っているらしいと感じていて、本当にわけがわからなかった。というのも目の前のおいしいご飯を人にすすんで分け与えようという気持ちが分からなかったからだ。

 

反面、自分が欲しいと思ったときに言ってみれば「欲しけりゃ頼めば」という塩っぽい対応をされたこともあり大人ってマジでなんなん…?正論なんだけどさ…と思ったりもした。結局注文をして食べれたので、そこは感謝したいものの妙なもやもやは残った。大人って言うことがコロコロ変わってズルイ。そう思っていた。

 

「ひと口ちょうだい」というのはマナー違反?

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さて、人生を歩んでいくと色々な人々に出会う。その中でも火種になりがちなのは「ひと口ちょうだい」さんだ。なんでも頼むとひと口ちょうだい?と言ってくる人は一定数存在する。それは男女問わずに存在する。こういった人々に嫌悪感を示す人はいる。

 

自分も友人たちと食べに行ったときに一人「ひと口ちょうだい」をねだっていたのだが、別な友人が本当に嫌そうに「食べたいなら頼めばいいじゃん」と言ってちょっと空気が凍っていたのを思い出す。わりとグチグチ言ってたりしたので話題を逸らすのに本当に苦労した。ごはんは平和に食べたいものだ…。

 

人間食べ物が絡むとピリピリしだす。しかも飯前で腹が減ってる時というのは餓えた獣状態なのでなおさら危険だ。やるなら食後で話す気力がなくなってきたころにやってほしい。それでも逆鱗に触れることはあるので、できればそっとしておくのがベターだろう。犬も食べてる最中にエサをとるのはご法度なんだとか。人間も食べてる最中は一人で静かで…ということかもしれない。

 

許される場面としては、遊園地とかでアイスの味見しあいとか映画館でポップコーンをつまみあうとかお菓子を開いてパーティしたり、ポテトを分け合う等だろう。リア充定番のシチュエーションだったり、もともとシェアされることを想定されているならば黙認されるだろうと思う。

 

あとは食べきれなくて残しているものを「いらないならもらう」というのは…厳密にはマナー違反だろうがよっぽど親しければかろうじて可ぐらいだろうか。やらないほうがマシなので、友情と天秤にかけてリスクのある行動だと思いつつ実行してほしいものだ。

 

大人になって気づいたこと

自分は大人になってから、むしろ「食べる?」と聞く立場になってしまった。なんていうかおすそわけ欲のようなものがある。自分の好きなものを食べてみませんか?という若干趣味の押し付けみたいになっていて申し訳ない。基本的に旅先や行ったことない店に友人と行くとき、めちゃくちゃメニュー見て悩んでいる友人の姿を見る。そうなるとじゃあこれ頼むから少しシェアでもする?という風に問いかけると笑顔になってくれたりする。こういうのは気が合っているならば良いことだと思う。最初からそういうことを決めておけば楽だ。

 

反面他人からのお返しは別に必要ない。あまり気にすることなく、おすそわけできるようになったのはなんでだろうな…と考えていた。その答えはきっと、人生経験を積んで余裕ができたんじゃないかと思っている。

 

子供にとって食べる、という行為は実はそんなに経験していないことなのだ。一回一回が初めてのこと、不慣れなことだと思ってもいい。毎回食事の噛みごたえや味も変わるし、なにより子供の味覚だって変わりやすいからなおさらだ。そうなるといろんなものに興味は出るし、自分の食べ物を味わうことに夢中で人に分けようなんて気持ちはさらさら起きない。初めてやるゲームを途中で取り上げられたりあーだこーだ言われるとイラつくことと似ている。自分で体験したい、集中したいからだ。

 

ただ、大人になると時間感覚が変わってくる。子供より長い時を過ごしたことによって、違うお店だってあるし、またいつでも食べられる、他の素敵なことにもきっと出会えるだろうとゆったり構えることができるのだ。それに自分にとって好きな食べ物も見つけているし、おいしかったものの記憶だってある。今この場でしか味わえないものという感覚がしだいに薄れていく。

 

旅に出ておいしいものに出会った経験は、いつでもは食べれないけどそれが貴重な思い出になる。なによりどれぐらい食べれたかなんて覚えちゃいない。覚えてるのはだいたいとてもおいしかった、風景がよくて空気もおいしかったぐらいだ。そんなに量を気にするほどのことでもない。

 

そして食事というのはただ食べるだけでもなく、人と会話しておいしいものを食べる空間を共有していることのほうが大切に思えてくる。不思議なものだが同じ釜の飯とかカンパニーの語源に思いを馳せるようになる。居酒屋なんてお酒を飲んでご飯を食べて管を巻く上司の話を聞く儀式みたいなものだから。

 

そうしていると親の「これ食べる?」と言っていた気持ちがわかる気がした。自分が食べるという体験よりも子供が喜ぶ姿や新しいものに触れられる体験を優先したかったのだと。大人はいっぱいいろいろなものを食べた経験があり、時間に対してある程度ゆとりを持っているからこそ、子供に対して慈悲深くなれるのではないかと思う。

 

子供は反対に時間が短く感じられるというか、時間に対する日々の過ごし方に慣れていないのだ。だから毎日がみずみずしく、精一杯全力で生きようとしている。そんな子供だから新しい体験をするというのは、きっと夢中にさせられる出来事なのだ。毎日なにかを食べるということも新しい体験の一つ一つに違いない。

 

この年になってみて子供の頃を思い出し、なんとなく親のことを想像できるようになったのはなんだか面白いことだなあとしみじみ思う。積み重ねた時間が何気なく、人に対する優しい気遣いや余裕になっているのかもしれない。