かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

5歳の子どもにできそうでできないアートはすごく面白い

 

タイトルから挑戦的な本

以前から現代の芸術作品について理解したいなと思っていたのだが、その欲求そのままの本が並んでいて一目でコレだ!と感じた。タイトルは「5歳の子どもにできそうでできないアート」。表紙からかなり挑戦的な本だとわかる。タイトルからも興味をそそられるだろう。

5歳の子どもにできそうでできないアート: 現代美術(コンテポラリーアート)100の読み解き

5歳の子どもにできそうでできないアート: 現代美術(コンテポラリーアート)100の読み解き

 

表紙から想像できるのは、壁紙を5歳児がひっかけて裂いてしまったというありきたりなものだ。だがこれは芸術作品の一つだ。キャンパスを切り裂くことで絵画という平面世界から認識をずらす、切り裂かれた場所から覗く深淵を表現しているということらしい。絵画の中で画材を使って表現するのではなく、むしろその絵画という概念を打ち破った表現が素晴らしいということなのだろう。

 

こうした一見してわからない絵画作品についての解説が丁寧に並ぶ。なかでも面白かったのは作者自身のために描かれたという作品だ。その作品を作ってから、作者の中での持っていた技法などの概念が全て変化してしまい元には戻れなくなった、というほどの衝撃的なことがあったらしい。

 

つまり作品そのものは結果にすぎず、そこから変化したのは作者自身であり、一般に見る人々はその作品を見て作者の抜け殻のようなものを見るしかないということらしい。どこか作品というものは作者自身を表すように見えてそうではなく、一種の通過点ですらなく、ただそこにかつての抜け殻が置いてあるのを見て思いを馳せるくらいしかできない、作品を読み取る作品ではない…という作品らしい。

 

こうして読んでみると本当に面白いのは、作者たちがいかに苦悩して自分たちの感じているものに対して真摯に打ち込んでいるか、問いかけているかということ。また作者自身の積み上げてきた常識的な技法や、そもそも絵画や芸術とは何かという問いに対して信じられないほどの執念を費やして制作に挑んでいるということだ。

 

最初に手に取ってみようとして表紙に目をやったときの感覚。それは「あー。なるほど、確かに一見したらこりゃわからん。たんに猫がひっかいちゃった傷にしか見えないよね」と思っていた。だが、解説を読んだ後で眼を向けてみれば確かにそこに苦悩が見て取れる気がする。今まで絵画という題材に全精力を費やしてきて、全て出し切ったかのように思えた人間が、ふと深淵を見たくなり、気が付くとキャンパスにナイフを突き立てた…そしてそれが目の前にある。その真意と経緯について思いを馳せると、とてもじゃないが確かに5歳の子供にできないアートであろうと思う。

 

本物と偽物の差は?何がいったい芸術なのか?

2chcopipe.com

ネット界隈ではたびたび現代アートはマジで意味わからんという発言が多い。自分もよくわからなかったし、上記リンクの素人が適当にそれっぽく印象的に描いた絵にうっかり反応してしまい現代アートとはいったい…という面白おかしいコピペになっている。だが裏を返せば理解したいという歩み寄りや、本物と偽物にわかりやすい明確な区別がついてほしいという願望のような気持ちにも見えなくはない。

 

そんな中で正しくその作品を制作するまでに至った背景・使用した画材についての説明なども含めて「なぜ5歳の子どもには作れないのか?」ということを説明しているところがとても高評価だ。タイトルの5歳の子どもにできそうでできない、というのを軸にして説明を組み立てているのは成功だと思う。

 

Amazonには一部ページのプレビューができるからぜひ読んでもらいたいが、ここで「コラージュのある白の上の旗」について引用してみるとそれだけでどんどん想像力が膨らんでいく。

一方、筆跡や彩色が強調された描き方からはメッセージ性が感じられる。なじみ深いものを描いたほかの作品では、ジョーンズはさらなる謎を投げかける。これは旗だろうか?それとも旗の写しだろうか?これは芸術作品だろうか?それは重要なことなのだろうか?

作品の5歳児に描けないとされる根拠の説明の文章も非常に面白い。

だがこの作品は、観る者に謎を投げかける。美的な価値というのは何か特定の物にもともと備わっているものなのか、それとも芸術家による創造の過程を通して初めて授けられるものなのかと問いかけているのだ。

この作品は単なる星条旗が上半分に描かれているだけだ。さて、この作品は誰にでも描けるのかもしれない。では何が芸術としてこの作品を扱わせるのか星条旗自体に意味があるからか?芸術という分野に政治的な色を持つ星条旗を持ってきたことが芸術の新規性なのか?それともタッチが荒く見る者に何かを感じさせるから芸術なのか?それともこれを芸術家が描いたから芸術たりうるのか。そういったことを問いかけてくるということらしい。

 

これはあまりにも芸術家自身の首すら絞めるような作品に見えてくる。芸術に価値があるのか、いったい何なのかを散々苦悩しながら作り上げたのかもしれない。かなりメタ的な作品のように思う。自分たちがいったい何を芸術作品として創っているのか、というのを試すかのように創っていく姿はいささか破滅的にすら思えてくる。もしくは人間や社会一般の芸術という観念に対して真っ向から挑戦していくような荒々しさすら感じるものだ。

 

絵画の平面という世界に対しての認識に挑もうとする精神や日常や人間の認識に対して疑問を投げかけたり自らを否定するような作品に挑もうとするその姿勢は表現者として誰にでもできるわけではないということが作品への価値へと繋がるのかもしれない。

 

文章や言葉は全て他人のものなのか?

cakes.mu

そして5歳の子どもにできそうでできないアートから感じること、そして上記の記事の一文からもやっとしたことを書きだす。上記記事の一番もやっと来た文章を引用する。

深澤 「自分の頭で考えて、自分の言葉で物を言う」って一見いいことを言ってるようだけど、そもそも自分の頭とか言葉って幻想ですよね。でもこれを言うと学生や若いライターはショックを受けるんです、「自分の言葉で書きなさいって言われました!」って。でもそれ自体が他人の言葉ですからね(笑)。
 けっきょくはたくさんのテキスト—しかも共感できずわかりにくい内容のものを—摂取して、他人の頭と他人の言葉をたくさん知ることが一番大事です。でもそう言うと、くだらない教養主義だと思われていまう。 

この文章の「自分の言葉なんてないんだよ」という表現が非常に好きになれない。世の中にはすべて使い古された考えやアイディアばかりで現代は再発明や再発見をうまくすることが大切だよと諭しているように聞こえる。もちろんそういったこともあるだろう。中二病チックに言えばすべての物語は聖書や神話で出尽くしたというところか。

 

確かに5歳児が何も知らずに芸術作品を生み出せるのか?という問いについては確かに他人の頭、言葉をたくさん知ることが大切だろう。では、何かを創作する側の人間が「自分の頭や言葉が幻想だ」と発言するのは正しいのか?そこが納得できない。創作する側が挑戦しなくてどうするんだ!と感じる。なんだかいじけてるようにすら見えてしまう。どうせ昔の人も全部やってるし、今更新しいものなんて全部出尽くしましたよ、今後は昔のアイディアの水平展開、ブルーオーシャン万歳みたいな感じである。

 

方や芸術分野の挑戦を見るとその常識や考えに真っ向から必死になって勝負を挑んでいるように見える。哲学の分野でも同じだ。今もなお進んでいるのかわからないが、それでも何かを求めて表現することだけは止めないように見える。他人の言葉ばかりを利用しているだけでは、進歩するのなんて無駄という停滞に見えてしまう。例えありふれたものを使ったのだとしても、それをもって更に何かを問いかけ続けることだってできるのではないかと芸術作品はそう突きつけるように見えてくる。

 

他人の頭や言葉を学ぶのは別にいい。それを学ぶのは武器を持つためだ。その武器を使って何かを探しに行くというのは、その人自身にしかできないことだ。武器は別にありきたりでもいいが、そこから何か新しいものを探そうとする行為こそがもっとも大事なんじゃないかと思う。そしてその行為というのは他人の頭通りに行動することではない。自分の頭で自分の思うままに探すことだ。それは幻想ではないと言いたい。

 

もうすべて出尽くしてしまったのか?

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

音楽についてもメロディーは出尽くしてしまったのではないかという危惧もあるらしい。だが、それでも音は無限にあるともいうがそれだけではない。やはり芸術である以上日々何か新しい表現はないか探して、それを試すことが続いている。まだまだ新しい音楽は生まれていく。

 

どこかで読んだが、一度本当に出尽くしたと誰もが思った時に民族音楽が再発見されることになった。それは西洋の音楽よりもずっと音の数が少ないにもかかわらず、とても情緒的で豊かなメロディーを持っていたことに驚かれた。そうしてまた新しい表現が次々と爆発するように増えていった…といった記事があった。

 

文章というのは日本人ならば義務教育によって誰にでも書けるのだと思う。そして似たような文章がたくさん並び、ずいぶん先進的な教育が施され大学全入時代とも言われている。教育が高度化して広く有用なアイディアや過去の記録を個人個人が理解できるようになった。そして今や有用な発言や作品、アイディアは瞬く間にSNSによって全世界にすら一瞬で拡散されてしまう時代だ。そうなれば自分の思い付きは全世界、全歴史上の誰かが考えたことと似ていたり、まったく同じではないかという恐怖に駆られるのも無理はない。

 

アニメやゲーム、ラノベだって展開が似てればテンプレ、キャラの特徴が似てればパクリとも言われるぐらい、どんどん作品が増えている。そうなると新しい表現なんてどこにもないんじゃないか、全て出尽くしたり過去の作品のパロディや部分引用をするしかないんじゃないかと思ってしまうのだろう。

 

だが、そんなときに現代芸術の盛んな取り組みがもしかすると救いに感じられるのかもしれない。5歳児にも真似できそうな、一見だれにでもわかるオリジナリティのない作品のように見えて、本質を理解した時にとてつもない衝撃を伴って一気に自分の中に取り込まれる感覚というのは誰にでも真似できるものではない。もしかすると現代の芸術というのは、そういった現代人にとって大事な、個人が受ける衝撃、感動という感覚を改めて教えてくれるのかもしれない。