かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

背後で爆発音がして振り返ったという表現の各作家まとめが好き。

 

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小説では基本的に擬音を使って表現するのは好ましくないとされる。ドカーンと書かずに、なんとかして周囲の人間を使った表現にしてみたり、心情を書いてみたり、耳鳴りがしたなど感覚に置き換えていく。それはとても難しい。

上記のネタでは各作家がどういうシチュエーションで爆発が起きそうなのかを予想して書いているのもおもしろい。例えばドストエフスキーの例などは確かに言いそうなものだ。

フョードルドストエフスキー (江川卓)

「そしたら、後ろで大きな爆発音がしたんですよ、ヘ!へ!」

これはおそらく老人か何かが説明しているところなのだろう。こういうタイプの説明は確かに見たことあるなあ…と連想させる。感覚として残っている作家の特徴をうまく抽出できているのだろうなと思う。このへ!へ!という媚びへつらいの汚い感じが上手く表現できている。そうなると、”そしたら”は少し違和感があるかもしれない。へ!へ!と少しつり合いが取れないか。もうちょっと汚い感じでスタートして後ろと調子が合うのもいいのかもしれない。

 

ちなみに一番好きなのは村上龍の表現。

村上龍 
「後ろで爆発音がした、汚い猫が逃げる、乞食の老婆が嘔吐して吐瀉物が足にかかる、
俺はその中のトマトを思い切り踏み潰し、振り返った。」 

 こう…何故思いきりトマトを踏みつぶしてしまったのか。トマトがとばっちりなのだけれど、激しい爆発によって吹き飛んだのだろうとも想像できるのが表現として面白い。勢いよく三つの表現が踊っているのもテンポがよくて好きだ。視点の描写がぐるぐると目まぐるしく変わる中で、”俺”はそれを見つつ、少し冷静かつ大胆にトマトを踏みつぶしているのがいい。わざわざ”思い切り”とつけるのが面白い。普通に踏みつぶすだけじゃ足りないということか。

こうして見てみると表現の特徴が作家ごとに様々で面白い。

 

ライトノベルの表現技法

反面ライトノベルは…という批判に用いられるのかもしれないが、自分はそうは思わない。ライトノベルの”ドカーン”で済ませてしまったりする簡便な表現は漫画の擬音やインパクトのドカーンに近いものがある。さっさと描写を済ませて物語を進めたい、むしろキャラクターの話を進めたいということかもしれない。

 

とある魔術の禁書目録」では全てのキャラクターが特徴的な話し方をする。「…とミサカは考えます」など自分の名前すら入れてしまっている。「悪りィが」などカタカナが入った喧嘩腰な感じの表現もある。これには理由がある。

 

それは口調だけで誰が喋っているかを区別できるので、誰が喋っているかの描写を省けるということだ。このテクニックを知ったときはとんでもないな…と思った。ライトノベルというキャラクターを前面に出して展開するメディアにおいて、描写の軽量化とキャラクターの濃い味付けをいっぺんにクリアする技法とは思いもよらなかった。

 

自分がなぜ好きなのかを説明できるか

ライトノベルにはライトノベルの味がある。もちろん純粋な文学にはその文章を最大限味わえるような工夫が凝らされていて没入度を高めている。どこに味を求めるのかということが読者層によって違うのだ。ライトノベルの読者層ならば文体や表現の味よりもまず真っ先にシチュエーションの味、キャラクターが醸し出す味に釘付けになる。

 

それに対して文学的な作品を好む人々は、作品への没入感を大切にする。もちろんライトノベル読者も没入はするのだが、どこかキャラクターの場面の想像やそのシチュエーションの躍動感、緊迫感に意識が向きがちだ。もちろんそういう表現になされているのだから、必然的にそういう楽しみ方になる。

 

だが普通の文学作品では表現を理解すること、ちょっと難解なほうが読むのに時間がかかる。それが体感する主観の濃さにつながる。どこかひっかかりが多い文章を読むとその表現が自分の内側に取り込まれるような感覚がある。この表現てすごく素敵だなと感じる度合いが高いのだ。

 

それに対してライトノベルで真っ先に挙げられるのは台詞のかっこよさ、キャラクターの心情描写の中身についてである。どちらかというと文体のカッコよさというのは意識されないのではないか。

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…ただ西尾維新とかきのこは別である。あれはちょっと違う。新しいエンターテイメント作品と見たほうがいいだろう。ジャンルもライトノベルから切り分けた新鋭のナニカだとは思う。こういった作品がぞくぞくと出てきて、それが好評を博していくのもライトノベルならではの可能性だとは思う。読んでいてぐいぐい引き込む魅力はあるのだが、それに浸りすぎてしまうと中毒を起こしてしまうような気がする危うさを感じる。文章にも栄養があると考えるならば、精神面でのバランスのためにも硬い文章、柔らかい文章を読んで比べてみるのもいいと思う。

 

ただ読むだけじゃなく、比較をすることによって自分がどうして好きかという気持ちがわかってくる。そうすると「この作品が好き」から「この作者が好き」になっていき、最後には「自分はこういったものが好き」という自分の性格面での主張ができるようになる。こうなれば読書好きと話すときに深くわかりあうきっかけにもなるのではないかなと思う。