かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

変わった人だって言われるけれど、変わってなんかいないはずなのに

 

変わってるという評価は安易だと思う

よく変わった人だと言われてしまう。ある程度親しくなったり話を重ねて、ふと間があいたとき、変わってるという評価を下されてしまう。そのたびに曖昧に笑ってごまかすのだけれど、本当は絶対に違うのになあと思ってやまない。結局人間性をわかりきれず考えを受け入れられないから安易に”変わってる”という評価をつけて理解を拒んでいるんじゃないかと思っている。

それはある意味自分の中の価値基準や判断基準にそぐわない異物として無意識に警戒された瞬間だと思っている。だからこそ異なっている、普通とは違う、自分とは相容れないという意味を込めて”変わってる”とされてしまうんじゃないか。物語でも天才的な発明家や芸術家はよく”変人”っぷりを強調されてこれでもかというくらい周囲に変人扱いされる。そのたび変人たちは自分たちは変人じゃない!という主張や他の人には理解されないことだから仕方ないという諦めを持ちつつ、結局は自分を曲げられずに生きるしかないというところに落ち着くのだろう。ここらへんは非常に定番といえば定番なのかもしれない。

 

変な人は変という評価を覆せない

現実で変人扱いされてしまうとなかなかその評価が覆ることがないから少し困ってしまう。理解できないものを受け入れない、もしくはなるべく拒むという警戒態勢を敷かれている気がする。本当の意味で真面目に受け取ってもらえる機会が少ない。自分から変人じゃないということを丁寧に説明するのは労力がいることだし、向こうも結局はわかりたくないと思っているのならば自然と距離は埋まらないままになってしまう。こうして誤解と偏見は残り続けるのだろう。

変人じゃないことを懇切丁寧にわかりやすく”普通”の人に説明して、あくまで普通の延長線上にある人間であることを理解してもらっても結局のところ「そんなに必死に説明するなんて”変な人”」というオチがつきそうなもので、まあ非常にどうしようもない話だ。変人は変人として扱われることしかどうしようもないのだろうか。

 

変人とされる人々は自分自身をまったく変人だとは思わないだろう。自分のことを変人であるという人間はまさしく変人だし…としてると論理パズルになるのでやめておく。自分たちが自分たちの中で正しいと思っていることを世間一般では間違っていたり、外れていることだから変な人扱いされるだけだ。世間がじょじょに変化することで変な人から普通の人のように扱われるのだろう。そういった認識のずれは文化の成熟や物議をかもす作品、事件などによって徐々に変化するはずだ。今なおLGBTとかマイノリティに属する人々が自分の在り方に悩んでいるのだろうと思うけれど、本人たちにとってはそれが当たり前だったり、普通のこととして受け止められている。それを世間の人々が無意識に警戒していたり、考えを受け入れたくないという気持ちが強いから変な人間として扱われるのだろう。

 

偏見の払拭は本当に困難な道

変なイメージや偏見がついたときにそれを払拭するにはとてつもないほどの労力が居る。子供の頃コカコーラは歯を溶かすと言われていたけれど、必死になってその偏見を払拭していた人を知っている。その人はコカコーラの営業さんで、きっとコカコーラが好きだったんだろう。必死になって説明されたけれど、母親が子供に悪いとかもし本当に歯が溶けたら嫌だからと言って飲ませてくれなかったのを覚えている。

自分がわかって理解していても、自分以外の周囲が協力的でなかったり懐疑的だった時、それを理解して受け入れてあげることは難しい。これはいじめでも同じだ。いじめられている人を守るのは難しく見守ることがもっとも害が少ないとわかっているからいじめはなくならない。自分がおかしいといった時、そして言えるときにマイノリティに属するのが嫌なのだ。自分は必ず多数側にいて、そして安全であることを保障されていたい。だから偏見や思い込みの排除は難しい。支持する人が圧倒的多数にならない限り、もしくは強力な力がない限りきっとなくならないんだろう。

 

おわりに

”変わってる”とか差別とか偏見とか。そういったものに接した時に自分が理解したくないんじゃないか、受け入れたくないんじゃないかと気付くことが大切な一歩なんじゃないかと思う。いつも”変わってる”と言われ続けたせいか、自分がそういった判断を下しそうなとき、ふと自分がどう感じたかをよく考えることになった。”変わってる”という言葉は本当に気楽で、簡単に頭の中でフィルターをかけれてしまう。けれどもその強力な言葉に頼らずに、自分なりに細かく、新しく理解しようとする試みが偏見などを減らせるきっかけになるんじゃないかと思っている。