かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

デジタルネイティブとの違いを分かったうえで生きていく。

 

考え方の違い

自分よりも若い人と接するとき、年上だから体験した数だけは少し上かなと思うけれど身体的感覚だけはまったく別なんだと実感するときがある。まったく未知の物や新しい問題にぶつかってしまった時の体や頭の動き方、そして発想の源がまったく違うことを知ったうえで生きていかなくちゃな…と自戒している。

昔からよくある新人さんが常識がないとか、逆に上司が老害だ!というわけではなくて、ただなんとなく世代の違いがあるということをしっかりと認識して棲み分けることが必要だなと感じている。この世代の違いというのは携帯電話の世代のようなイメージだ。ただ人間の構成自体はまったく変わっていないので、結局はバージョンが違うソフトウェアのイメージのほうが正しいのかもしれない。同じバージョンだと思って接すると痛い目に合うのはお互い様だ。

 

決して同じになれないこと

新しいバージョンの人として自分よりも若い人と接すると自分のバージョンが明確になる気がする。自分が思っていたよりも枠にハマっていたこと、発想が今の時流には少しだけあっていないんじゃないかと感じる。もちろん新しいものに適応しようと頑張るのだけれど、どことなく諦めや悟りが必要で自分のバージョンの保守に回る必要が出てくるのだと思う。それは生まれてからの環境から得たものは、後天的にはきっと手に入らないからだ。自分の体で覚えてしまったことの違いの差は本当に大きいものだと思っている。

 

昔、東京に出てきてタッチパネル式の切符売り場に酷く感動したものだけど、今は赤ちゃんですらタブレットで遊んでしまう時代。そして今の若い世代は全てその入力方式が当たり前という常識で生きている。それは羨ましいとか自分がダメだ、古い人間だ、新しくしなければダメという気持ちではなく、自分はこの時代に生まれて、この知識を持って、この世代の人間にしかできないことで生きていこうとすることが大切だと思う。自分たちの世代を過剰に否定したり肯定するのではなく、ただそうあることを認めて生きていきたい。

もちろん自分たちの世代ばっかり見たり、上見たり下見たり…というのは主体性がない。ようは自分の一要素として”この世代です”と自覚して、それを自分で活かして”現在”という時流に何かをするというだけだ。自分の立ち位置を明確にして、ちゃんと固定された視点でもって何かを成すだけだ。

 

案外新しい世代に目移りして必死になって新しい世代生まれのような人間になりたがる人もいる。それはある意味決してネイティブになれない英語上手な人のようだ。そうじゃなくて、ただ日本人として英語を喋り、何をしたいかをはっきりさせればいいと思う。ネイティブに過剰に憧れるのは無駄なことだし、かといってネイティブをバカにするのも奇妙な話だ。優れているとかそういう話ではなく、互いの特性を理解したうえでコミュニケーションが取れればいい。そこに配慮があればますますいいだけだ。

 

おわりに

新しいバージョンだからすべていいわけでもなく、古いバージョンだから安定していると言いたいわけではない。ただ本当にバージョンが違うだけだ。新しい時代に生まれてきて、その時代で学ぶことをきっちりと学んだ人間なんだと思う。自分も同じだ。互いの時代に生まれて、生きているだけ。それでも分かり合って互換性を持てるようになるといいと思う。

外国人が日本にやって来てカタコトの日本語でしゃべるとき、自分たちがネイティブとして意味がくみ取れるよう配慮するだろう。逆に自分が非ネイティブになる英語圏で英語が下手だ、Engrishと笑われるとき心が痛むだろう。そうした気持ちをデジタルネイティブなどにも同じように感じられるんじゃないかと思う。