かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

文章を書く原動力に必要なのは、その文章がいかに自分の人生のメインテーマに関わっているかじゃないか?

 

全力で書いて満足することは正しいのか?

先日こんなツイートを書いていてふと思いついたことを書いてみる。全力で文章を書いた後すっきりする感覚について。自分はブログの記事でなかなかいい感じに気持ちを書くことができたときに大変満足する。伝えたい気持ちが大きければ大きいほど、文章の量も長くなってしまい、それ相応に体力も消費するので心地よい疲労もついてくる。

 

しかし書き終えた後に読み返してみると酷いな、と思うこともあるかもしれない。昔は自分の書き終えたものに対して最悪だ…と思うこともあった。中学とか高校の頃の小論文なんかはそうだった。それはきっと、書いているうちに自分の心がふわふわどこかへ行ってしまったような感覚になっていたからだと思う。 

 

自分が書きたいと思っている、その本心に近いところを書く

小論文のテーマは自分の書きたいと思うものではない可能性が高い。それでも書かなければならないと思って、自分が何を書きたいのかを必死になって考える。いったん書きたいものと結論をひとまず定めて書き始める。…だんだん書いていくと、自分の中で「やっぱり書きたくないな」とか「つまんないなー」とか…。徐々に雑念が混じっていき、熱意が消え失せてしまい、いつしか中身がめちゃくちゃになってしまう。最後に読んでみればあちこち蛇行したような気持ち悪い文章だなあと感じるのだ。

 

自分の中の情熱とか書きたいという気持ちの炎が消えないように、そして見失わないように書くということは非常に難しい。自分が書きたいと思っている気持ちと真剣に向かい合わないと自分が正しいことをしていると信じられなくなる。それは自信の喪失に近い。自分の中で自信がなければ文章がきちんと書けなくなっていく。

 

自分の人生のメインテーマに関連したことを書く

kayanomi.hatenablog.com

自分の中で一番いい文章が書けているなと確信するとき、それは自分の”人生のメインテーマ”に深くかかわっている時だ。以前に書いた記事の中で紹介した人生のコア・テーマそのものだ。自分の人生の中で最も追求したいと思っている価値観やふと気づいたときに考えてしまう哲学。もしくは今なお苦しんでいる悩み。そういったものに関連付けて書いている時がもっとも自分の中にパワーがある。自分の中のメインテーマを少しでも前進させようと、解決しようとして書き始めるからだ。

 

自分のパワフルなメインテーマは”心の内側を外側に表現する”ということだ。自分が内側に籠ってばかりで、なかなか外に出せない苦しみを今なお抱えているからだ。外側の人に全くと言っていいほど理解されない人生を送ってきているからだ。だからこそ、”内向的人間”というテーマについては何時間でも書き続けることができるし、”文章”というもっともパワフルな心の内側を書きだすツールについても熱く、ほとんど手が止まらないぐらいスラスラと書きだすことができる。

 

もちろん文章の原動力に欲望を使うのもいいかもしれない。お金を稼ぎたいとか、感動したことについてとか。そういったものも書く原動力としてパワフルなものだと思う。そういった刺激が得意ならば書き続けることができるだろう。だが、やはり自分は報酬によって行動するタイプではないのだと思う。内側に籠って研究を続けるタイプに必要なのは、どこまでも自分自身の決意が必要なのだ。自分が自分自身のメインテーマをもっと深く掘り下げたいという気持ち。それこそがモチベーションになる。

 

自分のメインテーマを進めることができたことへの喜び

自分が特殊な文章の書き方をしているせいかもしれないが、自分自身のメインテーマを掘り下げるような記事を書いている時というのはとっても楽しくて仕方がないし、正直血液が沸騰するくらい興奮しながら書いている。一人で盛り上がってキーボードをガタガタ言わせているのだ。ちなみに盛り上がりすぎるとベッドの中でも頭の中でぶつぶつ言い始めて眠れなくなるぐらいになってしまう…。

 

ともかく自分自身のメインテーマについて少しでも気持ちの整理として文章を書いてみると、別な切り口での進捗が得られたり、はたまた新しい成長への第一歩になりそうだという感触が得られたりする。

 

だからあまり自分の文章を読み返してみて昔ほど悲観的な気持ちになることは少ない。むしろ読み返してみて自分がこれほどの熱量で書けたことにびっくりするぐらいだ。もちろん文章の粗っぽい部分や打ち間違いに気づくこと、もっと削ったほうがいい箇所も目に入る。

 

だが、例え文章がいくらでもうまくなったとしても、自分の中で満足する感覚が得られるか。これは自分の中でちゃんと書きたいものが書けているかどうかに尽きるはずだと思う。

 

逆にお客さんの反応をかなり気にして書いた文章というものに満足を得ることは本当に難しい。なぜなら、お客さんから気持ちをもらわなければ満足できないのだから。自分の評価に他人の評価を入れ込んでしまうのは危険なことだと思う。自分の満足に他人の満足を入れ込んでしまっているからだ。

 

全ての人を納得させる難しさ

自分は他人が幸せじゃないと幸せになれないというならば、自分が満足する文章を書くには、他人の満足が必要ということだ。これは少し奇妙に思える。誰も自分の書いた文章に100%満足してくれることはないからだ。だとすれば自分の中で自分の文章にひとまず満足するしかない。

 

自分の信条として”人を救うにはまず自分から”ということを大切にしている。これは文章にも当てはまると思う。つまり他人を満足させる文章を書くには、まず自分が満足する必要がある…なんてね。料理だってそうだ、自分がおいしいと思える料理ができてから、そこから他人に出せるおいしい料理を作っていけばいい。まずは自分をお腹いっぱい満足させることからだ。自分がおいしい料理を食べたくないと思っているシェフの料理を食べたいと思うだろうか?できれば、まかないが最高においしいシェフのお店で働きたいと思うはずだ。

 

自分で食べておいしいお店で働きたいのは普通のことだ。そういったモチベーションはいたって普通のことだ。文章だって同じだろう。自分で書いて満足するような文章が書けなきゃそのうち書くのが嫌になってもおかしくない。

 

同じように、堂々と自分の文章に全力で満足するのも悪くないんじゃないかなと思う。だって全員が満足することはあり得ないのだから、だったらまずは自分から満足するべきだ。まずは手短な一番わかりやすくて、いろいろ試して無茶が効くところから始めるべきだろう。

 

おわりに

まあここまで書いてしまうと自分にうぬぼれた奴だと思われてしまうだろうが、そういうことじゃなく、文章の質や上手さに対する満足と個人の満足は違ったものだということだ。たとえ下手だとしても自分の文章に満足することはありうる。文章の書いた内容について満足するのだ。

 

自分の文章の質については毎回反省させられることが多いけれども、それでも書けた内容については自信を持っていいと思っている。それが自分の毎日書くモチベーションだ。