かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

勉強の哲学の感想。自分の過去の体験や自分の哲学をマッピングしても面白い。

 

 この本はいったい誰のために、なにを目的としているのか

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

勉強の哲学 - 来るべきバカのために。まずはタイトルをじっくりと眺めてみよう。勉強の”哲学”…。勉強という活動に対する精神論のようなものだろうか。例えば毎日3時間机に向かいなさいといったビジネス書のようなものか…?

 

だが「来るべきバカのために」という言葉がよくわからない。この本はいったい誰のために書かれたのだろうか。どのようなことが書かれているのかわからない。答えは本をじっくりと読んで見つけるしかない。この本の入り口はまず、タイトルの意味について考えることだ。

 

「深い」勉強をすると周囲とズレてしまい、元のバカには戻れなくなる

はじめにを読んでみると、「深い」勉強をしてみませんか?と誘う本なのだ。普通の勉強や普段何も考えずに生活している人たちと比較して、立ち止まって思考すること、哲学チックなことをすることを「深い」勉強と言っている。

 

しかし面白いのはここからだ。「深い」勉強をすればするほど周囲からズレていってしまい「気持ち悪い」とされることを覚悟しなきゃならないよ、と言っている

 

今までは何も考えずにバカをやってきた、ありのままのバカな状態。それから「深い」勉強をしていくことで周囲とずれてしまう、浮いてしまう、ノリが悪くなるという段階に移行する。

 

その後に元のバカには戻れないけれど、新しいバカができるようになる。これこそ「来るべきバカ」なのだと著者はいう。このプロセスについて解説しているのがこの本なのだ。

 

まず第一段階について解説し、第二段階への移行方法を解説する。段階ごとに起こる自分の内側の変化や周囲の見え方の変化について、これほど面白い視点で語った本は例がないだろう。現代社会ではTwitterSNS、LINEなどソーシャルな機能が強く、なおさら集団の和から外れることが難しい、そんな時代だからこそ来るべきバカを迎えるための解説書となる良い本なのかもしれない。

 

非常に読みにくい点

この本は言ってしまえば非常に読みにくいし違和感を覚えるところが多い。というのも著者の独自ワードの連発だからだ。全編にわたって「ノリ」という言葉が頻繁に使われるが、「ノリ」という考え方はいささか漠然としていてつかみ取りずらい。若者たちの「ノリ」という曖昧な雰囲気ワードをなんとか学術チックに扱おうとしていて違和感を感じる。

 

そのうえで単語の意味を広く拡張して「環境のノリ」というように使っている。わかりやすさを重視して一般的に使われている「ノリ」という言葉を選んだのだろうけれど、議論が進んでいくにつれてちょっと単語の意味に無理があるなあ…と感じるところが多かった。単語の意味の独自拡張度が激しい気がする。こういった拡張を苦手とする人もいるので読み方には注意が必要だ。

 

こういった言葉の独自定義とか拡張してよりわかりやすく伝えようという気持ちはわかるのだけれどやりすぎると説得力のために定義しているようにも見えてしまう。自らが定義した言葉を理解しないものに門は開かれぬ、みたいな。まあ深い勉強はちょっと秘密めいた部分もあるし、しょうがないのだけれども。古代のピタゴラスとかは秘密主義だったしね。まあ本書が勉強の”哲学”なわけなので、こういった癖のある単語を使っているということだけは覚えておいてほしい。

 

一度反発したけれど、読みほぐすと納得できる主張

この本はどんどん挑戦的かつ断定的に読んでいる人たちに「勉強の哲学」を投げ込んでくるので、きちんと対処できないとすごく反発しちゃったり、あるいは主張を取り違えたりうまく読めなかったりする。自分は一章の最初で意味を取り違えてこの本読むのやめようかな…と思ったけれど、三回ほど読み直してようやく主張を飲み込めた気がする。

 

第一章の勉強と言語について一部分を要約すると、

言葉、言語というものはそれ自体に意味があってルールがある。これを使うということは自分自身の内側の発想に言語(例えば日本語)のルールを当てはめることになる

これは言語に縛られる、操られるということしかし第二言語を習得することで新しい環境、ルールを得ることができる。

すなわち、無意識に第一言語に縛られていた自分を自覚し、言葉というものに疑問を投げかけることから「深い勉強」への糸口になるというわけだ。

 

kayanomi.hatenablog.com

自分は以前にオリジナリティについて、5歳の子供にできそうでできないアートを引き合いに出して記事を書いたことがある。だから言葉というものに支配されている以上自分の頭で考えることはできない…という主張かな?と思ったのだけれどそうではなかった。

 

上記記事内で引き合いに出したWebライターの文章がこんな感じだった。

深澤 「自分の頭で考えて、自分の言葉で物を言う」って一見いいことを言ってるようだけど、そもそも自分の頭とか言葉って幻想ですよね。でもこれを言うと学生や若いライターはショックを受けるんです、「自分の言葉で書きなさいって言われました!」って。でもそれ自体が他人の言葉ですからね(笑)。
 けっきょくはたくさんのテキスト—しかも共感できずわかりにくい内容のものを—摂取して、他人の頭と他人の言葉をたくさん知ることが一番大事です。でもそう言うと、くだらない教養主義だと思われていまう。

「勉強の哲学」で言いたいことは、こういった意味ではなく、むしろ言葉で表現したいもともとの”まだ言葉になっていない状態”のものを言葉に落とし込む”変換部分”についてもっと自由にできるように、別な言語を学んだり、はたまた自ら言語を疑い実験し壊してみることが大切だと説いている。自分を縛っているものは何かを客観的に見るためにも「深い勉強」がきっと役に立つのだろう。

 

本書の半分ぐらいで初めて著者の主張が飲み込めた

さて、冒頭からこの本は独自の理論や言葉のオンパレードで著者との距離感をすごく感じさせる、あまり身近にはなれない本だなーという印象だったのだけれど二章の後半117ページで著者の体験談が入っている。この文章のおかげでようやくスッと自分の中に著者が言いたいことが入ってきた気がした。グッと読みやすくなったのだ。あー自分と著者は完全に同類なんだなあと勝手にシンパシーを持ってしまったのだ

僕のちょっとした思い出話をさせてください。

たぶん小学生の時、冬の日に、「呼気が白いね」と言ってしまい、「呼気」という語を珍しがられ、周りにからかわれたことがありました。「息が白い」といえばよかったわけです。「呼気」なんて普通は言わない。

(中略)

僕は、勉強する中で、周りに何か疎外感を持つようになっていたのかもしれません。それで、周りをはねつけるために、こんな異物的な語を、漏らしたというより、わざと突きつけたのかもしれない。自由になるために、「僕は自由なんだ」と主張するために。

勉強の哲学 - 来るべきバカのために 第二章  P117 - P118

このエピソード、実は自分の中で何度も何度もあって正直あちゃー…と黒歴史を見るような気分だった。直近でも周囲の人にえっ?と聞かれる言葉を使ってしまったりと非常に恥ずかしい。自分の中で当たり前の言葉だと思っていたのに、周囲にとっては当たり前じゃなかった経験は小学生から確かにあった。しかも毎回からかわれたのも覚えている。同じシチュエーションで何度もからかわれて”むかっ腹が立った”なあ。←こんな単語は普段使われないのでアウトな例…。

 

このエピソードと自分の中のエピソードが同じだと気付いたとき、著者の言いたいことがわかった。なるほど確かに勉強をすればするほど周囲から浮いてしまうし、ノリとも合わなくなることがある。周囲との合わせ方に子供の頃はとっても苦労するよねと

 

自分の過去の経験を丁寧に言語化していただいたようなものだ。謂わば自分の今まで歩いてきた道のりについて更に深く考察されている本という感じ。そう考えると自分もちょっと来るべきバカとして振舞えてるのかもなという気がした。

 

この本の読み方は二種類あるのかもしれない

普段から哲学していたり自分の内側に籠って、世の中について考えていたり、自分が周囲からどうして浮いてしまうのか、何故自分は違うのか?を考えて続けている”内向的な”人間にとってこの本はそこまで大きくは役に立たないだろう。おそらくはこの本の第二段階のとても深い部分まで到達しているだろうからだ。

 

ただ、自分たちが通ってきた道を丁寧に解説されるのは面白い。別な視点での解説というか…。日本の当たり前の常識を外国人が丁寧に解説している感じ。それを見てあー確かに変だよね日本の文化って…という楽しみ方がおすすめだ。

 

もちろん第三段階の来るべきバカについてはかなり参考になる。自分が今後どうやって生きていくか?という問題に対して実戦的な取り組み方法を解説してくれる。

 

この勉強の哲学という本は普段本当にあまり深い勉強とか深い悩みを持たず、人生の意味や自分が周囲から浮いた経験がない人にとっては”良い入門書”として振舞うだろう。

逆に今なお人生について深く思い悩んでいて周囲から既に浮いている人間にとっては現在の自分がどこにいるのかを解説してくれる”良いガイド本”としての読み方がオススメだ。自分の過去の経験や自分の哲学をこの本にマッピングしてみると非常に面白いだろう。そういった読み方をすればぐいぐい惹きこまれる魅力を持っている。

 

おわりに

kayanomi.hatenablog.com

「勉強の哲学」はひさびさに読み方を間違えた本だった。自分にとってこの本をどう読むのか?というスタンスがいまいち定めきれなかったからだ。だがいったん自分の中での解読できるポイント見つかってからは一気に読破してしまい、なおかつ二週・三週することでより楽しめた。

 

この解読ポイントを見つけるまではぐだぐだまったく進まず、読む気力がまったくない状態だったため、そんな気持ちを思い出しつつ”これって食わず嫌い”の読書バージョンみたいな感覚だったのを面白がって一本先に記事にしてしまった。

 

ネットでも勉強の哲学の感想を見るのだけれど、みなあまり”共感する”という感想が少ないように見てとれた。たしかにこういった学術よりの本でここまで共感できた経験は自分にもないのだけれど、著者のエピソードが偶然にも自分の過去と重なったのは本当に面白かった。もしかするとそういった経験をした人は案外多いのかもしれない。

 

ぜひ今後も著者の本を読みたいなと思う。続編に期待かな。