かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

燃料補給のような食事をしないために、今を楽しんで食べるということ。

 

強烈な嫌悪感をもたらす一枚の忘れられない絵

このブログでも何度も食事について書いていて、やはり食事と真剣に向き合って楽しんで生きていきたいと強く思う。どうしてそこまで食事を楽しむことにこだわるのかと疑問に思うかもしれない。きっかけは一枚の絵だった。

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石田徹也が書いた「燃料補給のような食事」に信じられないほどの衝撃を受けた…。まさに自分の生活そのものだったからだ。牛丼チェーン店によく通って、スマホをいじりながら味も確かめず適当に食べて帰る…。こんなことを繰り返している時に、この絵と出会ってしまったのだ。

 

相当、強烈な絵だ。どこにもグロテスクな要素はないにもかかわらず、背筋がぞわぞわするような、絶対に認めたくない、信じたくない気持ち悪いものがそこに描かれているように思える。店員の目はどこにも向いておらず、感情もない。全て同じ顔で同じ仕事をして、客の口に機械を突っ込むだけだ。

 

客がどこを向いているのか、どういった表情をしているのか…。それはわからないけれど、きっと表情はないのだろう。何も感じていないに違いない。もしも2017年度版が描かれるとするならば客は全員スマホの画面を見ていることだろう。

 

この人の作品は現代社会の闇というか…どこかに感じている閉塞感や息苦しさを直接的に訴えかけてくるせいで心で受け止めるのが本当につらくなるような作品ばかりだ。見たくない、見せてほしくない、認めたくない、感じたくない息苦しい悲しい気持ちを一枚の絵で全てうまく切り出して見せつけてくる。本当に一度見たら忘れられない絵ばかりだ。

 

自分がしてきた食事に対する意識を振り返る

「燃料補給のような食事」を見てしばらく気持ち悪さを感じて、ぐっとこみあげてくるような叫びだしたくなるような気持ちになりつつ、なんとか飲み込んで少し休憩をした後で自分のことを振り返ってみた。自分は今まで食事をちゃんと味わっていたのだろうか。食事そのものを楽しんでいただろうか。感謝していただろうか…。

 

あまり食事に対して意識していなかった頃は時間がないからと早く食べてしまい、お金がないから食費を削り、暇だからとスマホをいじったりテレビを見ながら食べたりと目の前の食事に集中していなかった。そしてそれで別に構わないと思っていた。けれどもあの一枚の絵を見てから考えがすっかり変わってしまった。自分はあの絵のような人間にはなりたくないなと思ったからだ。

 

それからは目の前の食事に対して真剣に味を感じることにしている。きちんと目の前のことに向き合って、ささやかでも幸せを感じ取れるように食べようと決めた。おなかがすいている時にご飯を食べればそこに幸せを感じられるはずだ。そのうえで味もしっかり楽しむ。たとえ毎日同じメニューを頼んだとしても、自分の体調や時間帯、天候などによっても自分が感じる味というのは異なる。大事な発表が控えてる時に食べる味と最高の気分で自由に食べるときではまったく違うのは当然なはずだ。

 

10秒チャージとか、24時間戦えますか…などせわしなく食事の時間は削って長く働かなければならないように強制されているようにも感じる。まるで本来食事の時間は無駄なものだといわんばかりに。けれどもそんなことを続けていれば石田徹也の「燃料補給のような食事」の風景が本当に完成してしまう。実はもうすでに誕生しているのかもしれない。それで本当に良いのだろうか。

 

マインドフルネス、瞑想…「今この時」に集中すること

beat0909.com

最近話題のマインドフルネスとか瞑想では食事に対する姿勢についても言及がある。一口一口をしっかりと味わうことは人生に対する幸せに強く影響するのだ。

このように、目の前の食べ物に全ての注意を向けてゆっくりと食事をとる事で、口に入れた食べ物の味や食感など、五感を使って感じ取り、今までないがしろにしてきた自分の食べ方や食べる量を見つめ直すことで、本当の食欲を取り戻し、食事から幸福感を得る「食べる瞑想」という仏教の教えをルーツに持つ取り組みが注目され始めています。

 

加えて、テレビを見たり仕事をしながら食事をすることで、意識が食事から逸れてしまうと、脳内で分泌されているドーパミンに鈍感になってしまい、幸福感を逃してしまうのだそうで、栄養学者であるパー・ブランガード氏はこのことを次のように比喩しました。(2)

「本を読んでいて、ふと気付くと、さっきのページに何が書かれていたのか全く思い出せないという経験を誰もが持っているのではないでしょうか。脳の中で起きていることも同様なのです。注意が逸れていると気付かないで通り過ぎてしまうのです。」

 

瞑想で一番大切にしている考えというのは「今ここに集中すること」だ。これは簡単なように見えてほとんど完璧にできる人などいないほど難しい究極の難題だ。それぐらい人間は「今ここ」に集中することが不得意だ。

 

食事に集中しないでいるときに他に何をしているだろうか。ニュースを見たり友達のツイートを見たり…。本当にそれは必要なのだろうか。「今現在」よりもそれは優先されるべきなのだろうか。ほとんどの人が「今現在」という地点に立ち止まったり、観察するということはしていない。ただひたすらに忙しく過ごしているだけだ。

 

 「この世の中は私たちの想像をはるかに超えるスピードで変化し続けています。そして、人々の生活のリズムは日を追うごとに早くなっていて、そのリズムに遅れをとらないように必死な私たちはどうしても食事に注意が向かなくなってしまいます。食べる瞑想はそんな日々の生活の中で本当の食欲や自分の体を見つめ直すキッカケになっているのかもしれません。」

 

別に牛丼チェーンでの食事をするべきではないと言いたいわけでもないし、10秒チャージを否定するわけではないけれども、食事を食事としてしっかりと楽しむことが大切なのではないかと思う。食事をおろそかにして、味を感じないでただ過ぎていくだけというのはもったいないと思う。毎日ただ「今現在」に集中して楽しんで食べるだけで人生は少し楽しくなれるんじゃないかと思っている。

 

おわりに

今でも牛丼チェーン店は大好きだし、簡単な食事をその場で済ませてしまうこともあるけれども味をしっかり確かめないで食べるということはしない。きちんと「いただきます」を言って、「ごちそうさま」を言うまでは食事に向き合うと決めている。そうして味わってみて体の具合とか、何を感じるかとか過去に食べた味を思い出したり…。その場でしか楽しめない出来事にしっかり集中しようとしている。

 

新しいメニューとか旅行先でのご飯なんかはとっても大好きだ。風景がまったく違っていたり、味が風変りだったりすると自分の心の中の感想が大きく膨らんで楽しい。味がまずかったってかまわない。あーまっずい…ときっちり感想を心の中でしっかり述べて、どうしてこんなにマズイのか考察したり、飲み物で緩和されるのか?などいろいろ試したりとあんまり悪いわけでもない。

 

食事というのは同じものが出てくることはないと思っている。基本的に一期一会なものだ。最近は加工技術や生産技術が進歩して個体差が少ないように調整されているけれど、本当は同じ料理なんか一つもないはずだ。だから料理人も一期一会を覚悟して作っているはずだ。お客さんに一回しか出せない料理を毎回がんばって挑戦して作っているはずだ。だから食べる側としても礼儀としてきっちり一期一会を思って、ただ毎回同じだとか思わずしっかり味わってその日の違いとか体調の変化を感じ取るのに役立てている。

 

ともかく食事というのは思ったよりも大切なことだと何度でも言いたかったし、自分の人生においてかなり重要なポジションを占めているのだ。別にたくさん食べるほうじゃないけれども、それでも楽しむということを続けていきたい。ただ燃料補給のために食べるということはしないようにしている。