いちばんおいしい。
スーパーで食品を探している時によく「試食しませんか」と話しかけられるのがつらい。なるほどおいしそうな香りをしたものを気軽に配っていて、みんながふむふむと食べて買ってたりする。自分も興味があってつまんで食べると、なるほどおいしい。しかしながらお値段がちょっと難しい。そうして店員さんが商品のウリを元気よく説明してくれるのだけれども、もう買うつもりがない。しばらくして別なお客さんが興味を持ったタイミングで離脱する。
こうしていると、真面目に接客している店員さんに申し訳が立たないなあといつも思うのだ。あんまり買う気がないのについつい試食には手が伸びてしまう。で、食べてみてやっぱり買わないとなると何のためにスーパーにいるのか自分を問いただしたくなる。自分がちょっと卑しいかなあと反省せざるを得なくなる。ホントに猛省したくなる。料理はつまみ食いが一番おいしいわけで、しかも無料とあらば相当に美味い。とはいえそれを目当てとしてしまうのはだらしがない。自分の身をたださねばと思う。
なんとなく試食にも向かう心をきっちり整えねばと決めた。買おうか買うまいか悩んでとりあえず食べちゃえという誘惑に負けることなく、一消費者としてまるで目利きをするように「これは果たして”買い”なのか…」という感じで挑むことにしたい。そうすればそもそも試食目当てで食べるわけではなく、商品の見極めとして判断材料として食べようという気持ちになる。
無料という劇薬
無料だから、相手だって気にしちゃいない、誰もが同じようなことをやっている、自分よりもひどい人はたくさんいる。確かにそうかもしれない。マナーの悪い人は全てのコーナーの試食を食べるだけに飽き足らず、二週目三週目…なんてこともあるのだろう。けれど、無料だとしても自分の生活態度を曲げないような気持ちが大切だと思う。
無料という誘惑はものすごく大きい。無料というだけで遠隔地から大量の行列が出来上がったり、一気にマナーが悪くなる人が後を絶えない。本来の価値が大きければ大きいほど、人を狂気一歩手前まで駆り立てるほどだ。お金はあってもなくても人生を狂わせる。お金の上がり下がりだって大きな影響を持つ。
無料だとか大幅値下げとかに出会い、目を輝かせて飛びつく前に一呼吸おくよう自分に言い聞かせたい。自分のいろんなポリシー、モットーの一つに「四つ葉のクローバーを見つけるために、三つ葉のクローバーを踏みにじってはいけない。幸せはそんな風に探すもんじゃない。」というものがある。
これは誰が言ったのか定かではないらしい?のだけれども、なかなか実践できないことの一つだ。三つ葉のクローバーを踏まないように生活するというだけでも一苦労する。それにいちいち三つ葉のクローバーに気を使っていては何も手に入れることはできない。踏むならばそれ相応の覚悟と責任をもって、そのうえで頑張ろうと思う。
けれども、四つ葉のクローバー大量入荷!先着100名様は無料!とか言って大勢の人が猛スピードで三つ葉のクローバーを蹴散らすというのは大いにありそうなものだ。そこまでしてほしいのか、そうしたことで実は失われているものがあるんじゃないか。自分にとって本当にそれは幸せになれるのか。そのお祭り騒ぎの後に残った景色は本当に美しいのか。いろいろ考えさせられる。
はいふりコースターの悲しみ
以前、自分のアイコンに使わせてもらっているアニメ「ハイスクール・フリート」のOVA発売記念に無料でオリジナルコースターを配るという企画があった。自分も興味があったのだけれども、配布直後からTwitterでは酷い報告が出回っていた。
はいふりコースターすげえ持ってる人いてなんか察してしまった
— もづ (@farorr) 2017年5月24日
ゲーマーズ前で10枚ぐらいコースター持ってるはいふりオタクうじゃうじゃいてブチ切れそうなんだけど
— カガエ (@mkshiro_0923) 2017年5月24日
一枚よこせよマジで
ということでまさかの一人でもらえるコースターの数に制限があまりなかった様子。さすがに数が少なくなると制限されたらしいが、Twitterでは多くの人が何枚も入手して”ガチャ”感覚で自分の好きなキャラクターが出るまで頑張ったそうだ。
その結果、まあTwitterで報告を見てそもそも行くのを辞めた結果が以下のツイートである。もう行こうとした際には既に公式から配布終了しました!という宣言が成されていた。完全敗北である。
はいふりコースターをもらえなかった深い悲しみを味わっている
— かやのみ (@kayanomicha) 2017年5月24日
とはいえ
コースターもらえなかったひとはゲマズのはいふりグッズコーナーにゴム製のコースターあるから買おうな
— ホカタニ (@takinobori) 2017年5月24日
無料でしかもOVAの特典祝いとして配られたものである。本当に欲しいのならば買えばいい。もちろん配られたものが限定だと本当に、本当に悔しいけれども、それはそれである。それもまた趣旨としては正しい。当たるも八卦、当たらぬも八卦。無料だからと血気盛んになるよりも、ちょっと高いお金を払って穏やかにお目当てのものを買ったほうが自分にとっては気が楽だと思い知った。
詫び石という無料のお詫び問題
ソーシャル系のゲームではシステムの不具合が起こるたびにユーザに有料アイテムを配る仕組みが存在している。これは課金している人だけでなく無料で利用しているユーザにも平等に配られる。けれどもこのシステム、じっと待っていれば無料でくれることを待ち望むユーザがいるということだ。ここにも無料の害があると思う。
実害のない利用者は、本来であれば運営の謝罪の一言と今後の具体的な解決策の提示で納得すべきだ。
そしてこの「詫び石」は子供の利用者と、一部の精神年齢が子供並の利用者に間違いなく悪影響を与えている。
補償は本来、「失ってしまった部分を埋める」という形の補填であるのに対して、昨今の全ユーザーへの「詫び石」は、特に何も失っていないが「価値のあるものが貰える」という、プラスマイナス0ではなくプラスになるようなニュアンスが含まれている事が多い。
本来、プラスになる事は「プレゼント」としてポジティブなイベントで行うべきであり、謝罪の意味で行うべきではない。
例え無料で楽しくゲームができていたとしても、ミスによってボーナスのように貰える仕組みができていると蜜に群がるようになる。無意識に増長してしまう。
子供の時からこの「詫び石」という謝罪方法に触れた場合、「運営がミスをしたら石(=実質的な課金アイテム)を配るのが当然」という歪んだ考えが生まれてしまう。
相手の失敗に対して能動的に、金銭あるいはそれ相応の補償を"要求"しようとする習慣が身についてしまいかねない。ゆすりの一歩手前である。
極端な話、レストランで料理が出てくるのが少し遅かったから何かサービスしろと言っているようなものである。
まあここらへんにつっこむと深い闇が待ち受けている。ガチャ問題だったり、そもそも基本プレイ”無料”という仕組み自体にがっつりとのめりこんでしまうユーザたち。そしてそのビジネスモデルによって莫大な利益を掴み、もはや離せなくなっている企業。ユーザは果たして得をしているのか、それとも損をしているのだろうか。本当に現状に満足できているのだろうか、幸せだろうか。
おわりに
ここのところ無料とかそういったものに痛い目を見る機会が多かったので反省もこめて。無料は人を狂わせる。無料というものにはとてつもない価値があるかのように思う。人を動かすのにはもってこいのものだ。けれども、その動かし方はかなり危険を伴う。だから動かされてしまうとき、動かされていることを自覚して、なおかつ自分の身を守れるようにしないといけないかもなあと思う。
お金を払うということはそこに責任とか契約が生まれる。割引には必ず何かの犠牲が払われたりする。金銭感覚が身についているというと無駄な出費をしないこと、ということの引き合いに出されることが多いと思うけれども、逆に払うべきところに払うという判断ができることもやはり金銭感覚なのだと思う。無料にうかつに引きずられ、ストレスやトラブル、ネガティブな感情にさらされたりすることもある。そういった部分も含めて大局的な見方を失わないようバランスをとって生きていきたい。