かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

真面目と言われること、真面目に生きるということ。

 

いい子で生きること、それに逆らうこと

子どもの頃は「いい子」でいることが当たり前だったから真面目とか不真面目ということは考えもしなかった。だって自分の生き方はこれであると強制されていたからだ。この親や学校といったものに縛られた「いい子」というのは、親や学校にとって”都合の”「いい子」だったのだろう。

 

反抗期に入り、自分が今までやってはいけないと散々言われていたことに手を出すようになった。とはいえ親の教育は根深く犯罪の域まではいかなかったものの、よく授業をサボったりするようになった。けれどもその「サボり」なんかは周りの空気に流されてしまってのことである。あまり自分の意志ではなかった。

 

たまたま少し仲の良くなった人はなんのためらいもなく授業をサボったり、人の傘を盗んだりした。授業をサボるという勇気はまったくなかった自分にとっては少しワクワクもあったけれども、同時に罪悪感も感じた。だが一番驚いたのは人の物を目の前で盗んで平気そうな顔をしていたことだ。そして自分にも「どれかとったら?濡れちゃうでしょ?」と聞いてきたことだ!

 

この時はすごく葛藤したのを覚えている。人の物を盗むなんてことはするつもりはなかった。自分が盗まれたときの悲しみをよく覚えていたからだ。悩んでいたのは「やめなよ」というべきか。注意した時に「ノリが悪い」と言って嫌われないかが不安だった。けれども唖然としてしまったので結局真意を聞くことにした。「それ人の物じゃん?やめときなよ」

 

その時の返事はにこにこした表情で言われたのを覚えている。「大丈夫、ばれない、みんなやってる、すぐに返す…」そんな感じだった。どうしてニコニコしてるのか。悪戯がばれた子供のような表情だったのか。悪いことをしていることに少し快感を感じているのか。何も言えなくなった自分は濡れて帰るのも悪くないと言ってわざとはしゃいでみた。盗まれた傘は結局盗まれたままだった。元の持ち主に申し訳ない気持ちだけが残った。

 

自分の居心地の良い生き方

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少し前に上記のまとめがホットエントリ入りしていたけど、まさに昔の知人にそっくりだ。まったくもって罪悪感は感じていないように見えた。そしてそれが当たり前のように仲間で共有しようとする人もいる。

 

そこに至って自分の中にちゃんとした倫理観とか真面目に生きようとする精神があることに気づいた。そういった行為に対して嫌悪感を示している。それは親から言われたからではなく、自分が嫌だからという気持ちからだ。親の考えや押しつけに反発して自由に生きていこうと思った時、本当に道を外れたことに対して”自分はやりたくない”という気持ちになった。

 

それから真面目とはなんだろうかということを自分なりに考えるようになった。真面目とは子供の中ではバカにされる要素だ。むしろ真面目でなく遊び上手だったり悪戯好きや反抗精神旺盛の子がもてはやされる。

 

では大人の場合はどうなんだろうか。真面目な人もいるし、真面目じゃない野心的な人もいる。人に嫌味を言ったり傷つけ、人の上に立って説教をするのが好きな人もいる。正直者が馬鹿を見るという言葉もあるし、どうも真面目に生きるというのは大変そうな道だ。ではどのように生きていけばいいんだろう?

 

そう考えて、自分は真面目に生きることというのが好きなのかもしれないと思うようになった。これは明確に親がそうしろと言ったからそうするのではない、ということに意味があると思う。自分で自分の生き方を決めたことに価値があると思う。自分の生理的に合わないような生き方はなかなかできないものだなあと感じる。ギャンブルにちょっと手を出してみても、どうにも心臓が小さいらしく全然お金がかかってなくてもバクバクして体力があっというまになくなってしまう。

 

自分で決める生き方

 自分にとっては犯罪を犯さない、人と喧嘩しない、なるべく穏やかであまり激しく人との交流がないほうが落ち着くという感じだ。自分の心とか体の反応をじっくり観察してみて無理のない生き方がきっと自分に合っているのだと思える。それがたまたま世間的に見て真面目そうな生き方だったというだけなんだと思う。それに対して損とか得を考えるのではなく、自分にとって居心地いいか悪いかぐらいの差でしかない。

 

 もう一つ大事なのは自分の生き方の方針をおおっぴらに見せない事かなと思う。意外とちゃらちゃらしててふわふわしてる人が実は心の芯がしっかりしていることもある。そういった人はここ一番、大事な場面で自分を絶対に曲げない強さがある。だから表面だけ見て誤解していた人たちが驚くことになる。けれどそれは表面をうまく合わせることで日常生活に溶け込んでいるからだと思う。表面をうまく合わせることで些細な人間関係の摩擦がずいぶん減るからだ。

 

こういう人たちは自分に害がある人からは本質的に合わないことを察知して早めに去っていくのが上手いなあと思う。自分の芯がある人は他人を見る目がきっちりしているようにも思う。そのうえで自分の主義主張を人に押し付けない。なぜならきっと押し付けて得られるものはないとわかっているからだ。そこは自分がそうしたいから、その生き方をしているだけだとわきまえているはずだ。それを勘違いした人は他人にうるさい人になるのかもしれない。

 

自分はまだまだ未熟だけれども、まっすぐ自分の生き方を生きてる人たちを見習って生きていきたいなあと思っている。

 

おわりに

真面目というのは損とか得とかいろいろ考えていたけれど、単に真面目というのが好きなだけな人もいるし、真面目じゃなきゃ生きられないと切羽詰まっている人もいる。真面目じゃなきゃ自分に生きる価値がないと言っていた人もいた。そんな人を見て自分にとって真面目とは何だろうかと考えるきっかけになった。

 

真面目だけが取り柄だと言っていた人に昔はまったく何も言い返せなくて、力なく「そんなことないよ」と上っ面で返していた。今の自分ならなんて言えばいいのかなと考えてみる。まあ真面目だから真面目だけが取り柄だと真面目に悩むわけで、真面目という概念に憑りつかれてしまっているように見える。

 

なんていうか、真面目というのはよく他人が下す他人基準の評価なのかもしれない。丁寧に誰もがサボることをきっちりする性分の人を揶揄するように真面目といったり、仕事の抜け漏れがほとんどない人に真面目な人という評価がつく。けれどきっと本人たちはそうしたいからそうしていただけで、別に真面目という評価が欲しかったわけではないのだろう。自分もそうだったと思う。

 

だから真面目が唯一のとりえというのは、他人から自分の姿勢が真面目そうだと評価されることが自分のとりえ…というのは悲しすぎないだろうか。それはあまり自分の評価になっていない気がする。まずはそこから話を広げて、少しずつ他人から縛られたものを解きほぐすことが必要なのかもしれない。

 

今はめっきり他人から真面目そうに見えないと最初に評価された後、しばらく付き合いが長くなるとすごく真面目と言われるのでちょっと面白いなあなんて思っていたりする。人の評価なんてさっぱりあてにならないから。