かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

自分の第二の原点をもう一度確認すること。外に出して初めて自分がわかるのかも。

 

ものごころと人生を変えたもの

自分の第二の原点というのは、いわゆる自分の人生を変えたモノと出会った時点だ。第一の原点というのは物心ついたとき。初めて自分というものが思考していることに気づいた瞬間であり、他人と自分の境界がわかったときだと思う。

 

自分にとっての第一の原点は鏡を理解した時だった。鏡には何者かが映っている。それはなんだろうか。人であることには違いないし、自分の動きに追従するなんらかの生命体。これを”自分”だと分かった瞬間が”自分”という思考するモノの誕生だったと思う。それまでは”自分”が思考しているか?ということすら理解していなかった。漠然とした境界の中であいまいな関わり方だった。けれど、鏡を見て初めて”自分”がわかり、自分が他人とは違うものだと理解した気がする。

 

第二の原点というのは自分がこだわり続けていたものを一度壊されるような瞬間だと思う。子供のころから何一つとして間違っていない、変わっていないものの考え方をする人は非常に少数だろう。子供の頃かたくなに信じていた、自分の人生哲学がある日突然に破壊される日が来る。その破壊するものは様々なものがあり得るだろう。良き友人、尊敬できる先輩、最高の教師、素晴らしい本、熱中した漫画や映像作品など。もしくは強烈な失敗、取り返しがつかない喪失、身体の危機などもあるはずだ。

 

この第二の原点で確認できることと言えば”自分の考えが間違っている”ということを100%認められることだと思う。自分が体験して獲得し、磨いてきた”自分にとっての真理”を破壊すること。自分にとって大切な我が子のように、自分を貫く信念が一度粉々になってしまう体験。この強烈な体験というのは第二の誕生と言ってもいいのではないかと思う。

 

なんとなくではなく、本当に0にしてしまうような体験。逃げも隠れもできない、逸らすこともできずに粉々にされるようなモノ。その体験から自分の考えを修正したり、より良いものに変えるということが必要だとわかるのではないか。変に受け止めきれず自分の考えは間違っていないと半ば曲げるようにしてしまうと、いつまでたっても第二の原点とはなりえないはずだ。

 

第二の原点から

自分の第二の原点では新しい仮説的な人生哲学なんかを育てていくのだと思う。そうやって新しく自分とは違った考え方というのを育てられるようになるとより他の考えを受け入れやすくなるはずだ。

 

思うに人というのは顔や性格、服装などなど要素がたくさんあるけれども、その人がいったい何をしたいのか。そういった人生のメインテーマこそその人そのものだと自分は思っている。そのメインテーマから派生して人は選択をしていく。つまりまあ…言い方は変かもしれないがその人の憲法みたいなもの。その人が将来においても選んでいくであろう基準だろう。

 

kayanomi.hatenablog.com

以前に書いた記事だけれど、やはりこちらの考えに強く影響されている。このTED動画のおかげで人を見る目について考え方を変えた。

昨今の面接の質疑でも「自分の性格をどう思いますか?」という質問なんかよりも、確かに「あなたの人生で成し遂げたいことはなんですか?」という質問のほうがよっぽど面白い。

自分の人生で成し遂げたいこと、自分にとって大切にしている価値観について立ち向かうとき人間はその本質や性質を乗り越えられるんじゃないかという指摘がいい。非常に勇気をくれるように思う。性格や分類で人を見るという偏見的なフィルターを取り払うのにも効果的だろう。

例えば仕事を任せたいなと思った時、あの人は積極性がないからとか仕事が遅いからと考えるのではなく、あの人のコア・プロジェクトに合っているから任せてみようとなるのはとっても良い考えだと思う

2017-04-13の日記から

 

その基準の改良の頻度が高くできるか。いつまでも同じ基準のままだと周囲と合わなくなる時がある。そういった時に例外的なものを設けて対応していくのか、それともそもそもの基準を変えるのか。そこには大きな差があると思う。場当たり的な例外というのは一時的なもので、本来の基準は変わっておらず矛盾しがちなところがある。だからストレスがたまる。

 

逆に自分の基準に周囲を合わせようとすると苦労したり圧力を与えてしまうことになる。自分の根本の基準を変えるような出来事というのは非常にドラマチックでなかなかできることではないと言われがちだが、日々細かく作り直したり、自分の信念、哲学を改良するぞという意識を持っていればわりと柔軟に生きていけるんじゃないかと思う。

 

第三はなんだろうか

では第三は何か。それは自分もまだ未体験なのでわからない…。けれども行き着く先は実は修行僧とかそういった無の気持ちなどではないかと思う。人生の様々な体験をし、栄枯盛衰を実感することでだんだんと生への執着が薄れていき、嫉妬とか強欲などからだんだんと身を引くことができるようになるのではないか。そしてまた喜びや楽しみなどからも離れていき、ただそこにあるという境地を目指す…のかもしれない。

 

 

おわりに

この記事をなぜ書いていたのか、なぜ書きたかったのか実はちょっとよくわからなかった。けれど書きたいと思っているから書いてみたけれど、なんてことはない自分の哲学について自分で確認するためだった。自分が今、どういった哲学で動いているかの確認を不安だからしたかったのだ。

 

こういった文章を書いてみて自分がどういった考えで世界を見ているのか、人を見ているのかというのを調べるのはなかなか面白い取り組みじゃないだろうか。普段自分がどのように見ているのかを書いてみることによって、はじめて自分がどのように見ているのかわかる。…言っている意味が妙に複雑な気がする。

 

自分が考えていることを書いてみて初めて人は自分が何を考えているのかわかるんじゃないか。だって、考えていることを考えるなんて難しすぎやしないか。だからこそ自分の哲学について考えるなら、自分がどのように人と接したいのか。それを外に出すしかない。

 

自分が自分の人生をどのように生きたいかを見直すとき、きっと文章だったり、写真だったり、漫画だったり…。なにかしら自分の気持ちや生き方を反映するようなものをやってみることで、自分のことをより理解して整理し、この道で合っているのかを問いかけられるのだと思う。

 

ここまで書いてみて、読み返してみると自分にとっての最初の原点として書いた”鏡で自分という存在を自覚する”ということも実は文章を書いて整理することとおなじことをやっていたのかもしれない。自分について書いた文章、それも自分の生き方についてなんて鏡で自分の姿を確認するみたいじゃないか。まあ魚拓のようなものかもしれないが…。

 

こういった気持ちとか考えみたいなものが新しく浮かんでくるのも書くという効用な気がする。書いてみるということはやっぱりなかなか面白いものだ。