かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

アイディアを思いつく場所は机の上ではない。三上(馬上、枕上、厠上)について。

 

同じ場所で悩んでもしょうがない

アイディアとか解決策というのは机でうんうんと悩んでいても全然思いつかないことが多い。よく自分も机で悩むことは多いのだけれども、困っていたり切羽詰まっていると良いアイディアは浮かんでこない。むしろ現実の複雑怪奇さに苛立ち、もういやだという気持ちになるだけだ。

 

けれどアイディアに対してこれほど机で悩まなければならないというのは、机に向かっていない時間=仕事の時間ではない、とみなされることが多いからだろう。学校教育なんかもきっとそうだ。みんなが静まり返った教室の中で机で一人で延々と悩むことが大切だと強制されている。

 

でもまあいいアイディアというのは時と場所を選んでくれない。家に帰る途中で突如として思いつくこともあれば寝る前に天啓が下りてきたり、夢の中で答えを教えてくれたりもする。一度どの問題や課題から離れたときにいったん、思考がリラックスした後で答えがわかることはよくある。

 

これはずっと悩み続けているからあと少しでいいアイディアを思いつくはずだからやめられないということもあるだろう。もしくは時間がなさ過ぎて机に一秒でも多く向かわなければと思っているのかもしれない。それでもプレッシャーからアイディアが生まれるわけでもない。悩みすぎたら場所を変えたり時間をとってリラックスしたほうがいい。

 

アイディアは三上(馬上、枕上、厠上)

古代の中国では良い考えは三上で生まれると言われていた。馬の上で移動中にふと思いついたり、寝る前だったり、トイレでリラックスしているときなどのこと。机にかじりついては生まれないのかもしれない。ここに散歩がないのだけれども、現代としては電車の中だったり自転車や自動車なども入るかもしれない。散歩も悪くはないと思うのだが。

 

どんな言葉だかはっきり覚えていないんだけれども8時間勉強して7時間寝るよりも7時間勉強して8時間寝るほうが効率がいい、みたいなものを見たことがある。長時間の勉強などはずっと集中を高く保つことなど到底できない。だからこそいったんリセットする時間が必要だ。もちろん睡眠という最大のリセットは削ってはならない。

 

そしてもう一つ、上記のリンクにあったのでこれを引用したいと思う。

三多 - 文章上達の秘訣。看多、做多、商量多。

それぞれ「多くの本を読むこと」、「多く文を作ること」、「多く工夫し推敲すること」

しかしこんな単語、いったいどこで覚えたのやらと思って調べてみたらどうやら有名な思考の整理学に載っていたらしい。

yhkhashimoto.hatenablog.com

さらに著者が加えたものが三中ということで紹介されている。

■思考の形成に役立つ:「三中」

 三上、三多と来て、本の筆者の外山氏は「三中」を加え、それが「思考の形成に役立つように思われる」と述べています。その「三中」とは無我夢中、散歩中、入浴中です。何かの最中が「いい考えの浮かぶいい状態である」と述べています。

うーん、無我夢中はちょっと良くないような気がするけど…。何かを情熱的に追い求めることをむりやり「中」という文字に当てはめた結果なんだろうか。そのわりに散歩中と入浴中というのはいささか平凡だ。

 

自分の経験からしてみれば空想中というか、ぼうっとしているとき、自意識喪失状態の時にふとあれってなんだっけ?みたいな感じで思い浮かぶことがよくある。突如として単語が思い起こされて調べてみると今の状態にぴったり合っているようなものだったりして驚いたこともある。

 

さすがに食事中はあまりいい考えは思い浮かばない…というよりも食事自体に楽しんでいるのでどっちかと言えば食休み中に思いつくぐらいだろうか。とはいえ食事ではあごを動かして脳に刺激がでているような気もするので悪くはないと思う。けれど食事中に論文を読んだり…というのはあまりマナーがよろしくない。それに満腹になれば思考は鈍るというか眠くなってしまいダメだ。

 

上のブログの記事を書いた人が

 ここには「話の最中」が含まれませんが、コミュニケーションの仕事に関わっていると人から話を聞きだしたり、相談することでなるほどと思うことが少なくありません。なので、私は「話し中」も加えて「四中」にしたいと思います。

と言っているが、無我夢中よりもこちらの話し中というか会話中に思いつくことはよくあるのでこちらで三中でちょうどいいのではないだろうか。

 

おわりに

気軽に悩んだら散歩に行けるような世の中にはならないだろうか。ならないだろうな…と思うのは、楽しんでただ散歩する姿と真剣に悩んでいる姿の区別がつかないからということかもしれない。では座って唸るのが正しいのか。その姿を見てちゃんとやってると判断なんかできるわけでもないはずなのに、とは思いつつも結局は信頼がないということだ。

 

人が人を管理するときは安易でわかりやすい指標に頼ったほうが、管理する側の心理的負担も実際の負担も低コストで済む。座っている時間を測り、成果で割ってあげればがんばったかがわかるのか。

 

…とまあ書いてみたけれど要するに自分がじっとしているのが大変に苦手だから助けてほしいというか世の中どうにかなってほしいなあという切なる願いだ。ハンドスピナーなんかをいじったり何かあちこち動かしながらなんとか衝動的に動くことを防いでるくらいにはじっとすることがつらい。

 

できれば適当にずっと歩きながら思考して、思いついて出力するときだけ座ってばりばり書いて、集中力が切れたらまた歩く…みたいなことがしてみたいものだ。