かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

謝るということはとっても難しいことだけど

 

謝りたくても謝れないことがある

謝るというのはすごく難しいことなんだろうなと思う。大人になればなるほど謝るリスクは高いように感じられることが多い。謝るということは自分の否を認めることであり、自分にダメージを受けるように感じられることがある。

 

それになかなか自分が間違っているということを受け入れることも難しい。自分もヒートアップ、相手もヒートアップしている中で思うように動けなくなり、謝るタイミングを逃してしまうことだってある。引くに引けないという状況では泥沼化していってしまう。

 

謝るというのは難しいけれど、きちんと謝れる人、一歩引いて冷静に過ごせる人は素晴らしい人だなと思う。特に難しいのは相手の感情への配慮と事実に対しての切り分けだ。どういうことかというと、人間はいくら論理的に話していても感情があることには変わりないということだ。

 

正しいことで人を傷つけることは正しいか

たとえ正しい論理で正しく進めていっても相手が感情的に納得できないこともあるし、自分ではそうは思っていないがヒートアップしてしまい言葉が厳しくなってしまうことがある。自分は正しいことを言っているのだから相手を傷つけることもやむなし、という態度は暗に自分は謝らないという立場の表明でもある。

 

自分もかつては正しい論理は正しいのだからそれは譲らないほうがいいと思っていたし、相手のことを考えずに論理そのものに感情をお互いにこめずにやることが良いと思っていた。酷くいってしまえば相手も大人ならば感情の始末は自分の中でやってほしいみたいな感じである。

 

けれどこれは傲慢だ。なぜなら相手は戦いたくなんかない場合があるからだ。戦いたくない人をむりやり正しさという土俵で戦うことを強制させて打ち負かすのは卑怯である。そのうえで怪我の治療は自分でしろというのはむごい。

 

 相手の感情に配慮して、論理的に正しくても謝ることは大切な場合がある。自分から誤ったほうがいい場面がある。特に自分が悪いことをしたときは素直に謝ることが大事だ。自分のわだかまりも減るし、相手にも気持ちを伝えられる。大人だからこそ大切なことがある。

 

おわりに

言ってしまえば悪いことをしたら謝るということの大切さは本当はみんなわかっているはずなのだ。大人になると感情をあらわにすることは恥ずべきこととしてお互いドライになろうとしている。生産的、ビジネス的な時には人間的感情は不要であると切り捨てる。

 

が、自分は結局人間は人間であり続ける限り、感情はなくせないし見ないことにしてはいけないと思うのだ。人間とはどこまでも頭がよくなっても感情の動物である。どこまでクールでドライにしたって感情には配慮しないといけない。ついみんな感情を隠すのが上手いから気にしなくっていいと思うかもしれないけれども。