かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

面白きこともなき世を一人でたくさん面白がる

 

人の感じる面白さはわからないものか?

友人に自分のオススメを紹介しても読んでくれなかったりする。こういうことはよくあることだし、自分も同じことをしてしまう。友人からYoutubeの面白オススメ動画を紹介されても自分で見つけたよりも面白くなかったりする。不思議だけどそんなものだ。

 

面白いと感じるのは人それぞれだ。ある人にとっては面白いけど、ほかの人にはまるで理解できないということもある。数学、物理などの素人から見たらさっぱりわからない研究について教授がいかにもすごく楽しそうに解説する姿なんかがテレビで放送されていたりする。どうして面白いと思えるのだろうか。

 

そもそも逆を考えてみる。世の中すべてが面白くない人はいるだろうか。間違いなくいる。年中いらつき、アルコールにおぼれ、人に当たり散らしてすべてが不幸だと言わんばかりの被害者だと思っている人。こういう人は世の中すべてが面白くない人の典型だろう。

 

じゃあ世の中すべてが面白い人はいるだろうか?これはかなり難しい。が、部分的に入る。笑い上戸のよっぱらったサラリーマンなんかはすべてが面白いだろう。これはまあ例外かもしれないが…。

 

極論してしまえば脳をいじって電流流せばなんでも面白く感じることはあるだろう。また完全に外界と隔離して洗脳してすべて面白いと感じる教育を施し、つまらないと感じたものを抹殺し続ければうまくいくかもしれない。ある意味究極のイエスマンみたいなものだ。

 

どこかの本に、敬虔なシスターが事故か何かで脳を損傷した結果、飲んだくれのろくでなしになったが、治療後もとの敬虔な人間に戻ったという話があった。世の中を面白がるのも敬虔に過ごすのも脳次第とも言えるんじゃないかと思う。

 

世の中を面白がるとなにがよいのか

極端になる必要はないけれど、要はがんばれば世の中をある程度平均より面白がる性格になれるんじゃないか?と思っている。大体の人は面白がる必要はあるのか?そこに努力は必要なのか?といぶかしがるだろう。

 

世の中をより面白がることができれば興味の範囲が増す。面白がるというのはある意味で自分の内側の好きという気持ちに結び付けられる能力だと思う。また理解しようとする積極的姿勢だとも思う。

 

人間はよく知っていること、経験したことに対しては結びつきを強くして多少なりとも興味を示すことができると思う。例えば沖縄に行った経験があれば沖縄の話題には多少興味を持つ。だが海外に行ったことがなく行く気もないなら興味や面白さも感じないのが普通だ。

 

けれど異文化交流とか言語について、人種、はたまた長期旅行などに興味があれば面白がって聞くことができる。自分の内側といかに結び付けられるかが面白がりのカギなんじゃないか。

 

おわりに

どうしてこういう考えなのかといえば、やっぱり研究からだ。研究では一つのことや自分の分野、研究テーマだけ追いかけていても広がりがない。研究者はむしろ関係のない分野に対しても興味をもって聞く態度が大切だと思う。

 

言い方はあれかもしれないが、常在戦場というか、周りの物事に対して研究に役立てようとするアンテナを持ち続けることが大切な心掛けなのだと思う。これを義務とか責任感だと思わず、面白がってやれる人はなによりも強い。それらができるのが教授というポジションのような気もした。

 

面白がらない、興味を持たない、理解しようとしないというのは拒絶の態度だと思う。そこから拾う気はないみたいな形だ。でも常になにかしら拾おう、楽しもうとする人は多くを得ることができると信じているし、周囲にも少しいい影響があると思う。ポジティブな考えになるし、相手にも聞き役として接することができる。

 

笑う門には福来るともよく言うし、面白がることは自分の世界を広げてくれるしそこから新しいものが生まれる可能性もある。高杉晋作の辞世の句にもあるけれど

おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり

高杉晋作 - Wikipedia

自分次第で面白さというのは変わってくる、面白さの総量だって変わってくるし可能性だって大きく変わる、周囲への接し方すら変わると思っている。自分の感じる世界を変えるのは心次第だという名言だと思う。