かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

神社で参拝するとき、真ん中を歩きたかった

 

一歩一歩踏みしめて

神社にお参りをする際に堂々と真ん中を歩いていきたいと思い、真ん中を歩いた。真ん中を歩いていると全体をしっかりと見つめることができて絶景だなあと感じ入る。木々もきれいだし、自分も背筋伸ばして歩かないとという気分になる。

 

とはいえ真ん中を歩くのはいささか不敬ではないかと歩いた後で不安になってしまった。一応調べてみたところ、別に大丈夫らしい。混んでいない時は堂々と真ん中を歩いてもいいのかもしれない。が、礼儀だけは絶対に忘れちゃダメなんだろうなと思う。

なんで誰も疑問に思わないの?

神様は正中を通って、どこからどこに行くんですか?

いつもどこに居るんですか?

正中を避けなきゃいけないのに、なんで鈴は正中にあるんですか?

賽銭箱はなぜ正中に置かれているんですか?

神主さんはなぜ正中で祝詞をあげるんですか?

で・・・

何で年始の参拝では正中も通るんですか?

 

神様が通る道であれば、絶対であるはず。

それがなんで、年始の参拝では参道一杯に人が居るんですか。

正中に手すりでもつけて人が入らないようにすればいいじゃないですか?

それに神職さんだって、真ん中歩いている神社も山ほどあります。

正中は神様の通り道は全くの間違いです|えんたぬのブログ

 

こうした気持ちはきっとワガママということだろう。自分の都合ばかりじゃ呆れられてしまうに違いない。参拝してみるといくつも気づくことがあるなあと毎回思う。風景を楽しみたいなら立ち止まって見ることにしよう。歩くときはそっと他の景色を見たい人たちに邪魔にならないように向かおう。そう思った。

 

こころの道をまっすぐに

ところで真ん中を歩くというのは時に精神的なことにも言われると思う。道を外れるとか、正道とか。神社で真ん中を歩いてみた時、前から外国人のカップルかなにかがやってきた。その時、真ん中を歩いている自分が少し恥ずかしくなりそっと道を譲って目を背けてしまった。

 

その時に、まっすぐ歩くことを恥じちゃ自分が泣くなあと、ふと思った。まっずぐ歩くと決めたなら堂々と歩かなければ後で悲しむのは自分だなあと。逆にも言えると思う。自分がこそこそと脇を歩くことに引け目を感じて、真ん中を歩けなかったのは人のせいなんていうのは恥だ。

 

自分の人生の歩み方は自分で決められるものだ。自分に恥じないように正々堂々真ん中を歩くと決めたら、自分が後で恥ずかしいと思わないように歩かなければならない。自分がきちんとまっすぐ歩いたぞ、歩いているぞと胸を張れることが大切なんだと思う。

 

ちょっと自分はまっすぐ今は歩けていないのだと思う。あちこちふらふら、人がこっちだあっちだ、不敬だなんだと言われてばかりで、いつしか自分が決めていることも忘れて人があれこれ言うからとねじ曲がっていた気がする。

 

だからか真ん中を堂々と歩いてみたかったのだけれど、それはあくまで心の問題。実際に歩くのとそれとは違ったということも学べたような気がする。脇を歩いていたって心がきちんと前向いてまっすぐ歩けて、それでいて自分に恥じゃなければそれがいいのだと気付かされたように思う。