かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

遠慮よりも感謝のほうが喜ばれるときもあると教えられた思い出

 

怯えによる固辞

 むかし子供の頃、友人の家に招かれた際に手作りのお菓子を振る舞われた覚えがある。それはとてもおいしそうで、高級かつ手間がかかっていたので非常に遠慮した。だが、そのときに言われたのが「遠慮するよりも喜んで食べてもらったほうが嬉しい」ということだった。

 

自分は親から厳し目に人から物をいただくのは固く遠慮しなさいと言われてきた。食べ物に関しても「夕飯が食べられなくなる」と若干苛立ち混じりで怒られていた。だから自分は過剰に遠慮する子供になっていた。

 

これはきっと外から見ると遠慮ばかりする内気な子供か、もしくは遠慮ばかりでいい顔したいだけの子供のように見えていたのかもしれない。だが実際には親の怒りが怖くて怯えていたに過ぎない。見えない鎖でつながれていたようなものだ。

 

実際思い返してみると親もわりと独占欲が強かったのだろう、自分が与えるものよりも他の人からもらったものに喜ぶのが許せなかったのだと思う。素直に喜べない子供というのはつらいものだ。だから人の家に行くときはびくびくしていた。食べるものにも非常に気を使っていた。

 

そうしたネガティブな気持ちを吹き飛ばしてくれた優しい言葉だった。ある意味人からものをもらうときに自分の都合ばかり気にしていたことに気付かされた。物をもらうときは、当然嬉しい。その嬉しいという気持ちをきちんと伝えることが相手への報いになるということを知らなかった。もらうことはいけないことだと教えられてきたから衝撃といえば衝撃だったように思う。

 

それから自分はオーバーに喜んで贈り物を受け取るようになった。けれどもだんだんオーバーがオーバーじゃなくなってきた。というか今まで自分が抑えていた遠慮の気持ちが大きかったからオーバーじゃなきゃ自分の気持ちを開放できなかったように思う。

 

遠慮はなくしたつもりはないのだけれど、ただ過剰に遠慮したり怯えによって贈り物を拒否したりすることはなくなった。代わりに贈り贈られ持ちつ持たれつみたいな情緒がわかるようになった気がする。あの時かけられた言葉こそ、自分にとっては最大の贈り物だった。今でも感謝している。ありがとうございました。