この世界に自分は生きているけれど、この世界は自分のために生まれたわけではない。
本当に当たり前のことだけど、ちょっと救いになる時もある。
この世界に自分はいなくても問題ないし、他の人がいなくても問題ない。
もっと言えば地球、この世界は人類の私物ではないのだ。
偉そうに管理はしているかもしれない。未来を考えているかもしれないが。
自分のために用意されたものというのは容易にプレッシャーになる。
この世界が自分のために用意されたとか言われたら大変だろう。
世界に感謝していろんな慈善事業とかやらないと罪悪感すら感じるはずだ。
でもそうじゃない。世界は誰のためのものでもない。
一見して寂しい考え方のように見えるけれど、そうじゃない。
世界のためにとか考えるのは自分の自由に制限をかけてしまう。
なにか世の中の役に立たないと申し訳がないとか考えなくていいのだ。
世界はそんなことを求めない。ただそこにあるだけだ。
まあこんなに世界世界言っているとセカイ系というのを思い出す。
もう死語になっている気がしないでもない。
なんとなくセカイ系の考え方は便利に社会で使われている気がする。
きちんと仕事をしないといけない。人のためになることをしなければならない。
社会のためになることをしなければいけない。正しくあれ。
確かに世界には存在するし、社会にも参画している。
ただ、それを責任とかそういう言葉で本当の気持ちを隠していないだろうか。
本当は人が減ると困るとか、みんなで便利に過ごしたい、快適にすごしたいからだ。
それを一般論みたいに使って、責任だなんだと言って飲み込ませている。
誰もがそんなことをやったら破綻する。みんながろくでなしの世界でいいのか。
だからみんな一人ひとりが頑張る必要があるんだ。
そんな言葉を学生時代も今も聞く。
だが、それは人の都合でしかないのだ。
世界に都合なんてありはしない。社会という曖昧なものにも都合はない。
あるのは誰か人の集団だったりの都合だ。
だが人間の事情というと泥臭いので世界だとかにごまかして伝えられる。
これを大人たちは理解して大人の事情ってやつにしてるのかもしれない。
誰もが守らないと管理する側の人間たちが困るから。管理できなくなるから。
もちろん犯罪をしないとかは大切だ。
そういう論理と同じように自分の都合とかそういうのに使うのがよくない。
大人になると自分の感情を隠して相手を丸め込むのがうまくなる。
人に対して世界とか社会の話を持ち込むのはやめたほうがいい。
この世界はだれのものでもない。
それが人にとっての救いのような気もする。