かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

大げさ

 

自分は感情表現もそこそこ大げさだと思うし、感動することも多い。

それがどうやら人には異様に映るようだ。そして馬鹿にされることもある。

大げさすぎる、人生はそんなに大したものじゃない。疲れるだけだ。

なぜそこまで感激しているフリができるのか?そんなことも言われた。

どうせ嘘なんだろう。

 

本当のことを言うと最初は嘘だった。

大げさに感動するようにして、人に自分の感情をよく見せるようにした。

以前の自分は心をかなり閉ざしていたようだ。人には何も教えなかった。

休日になにをして過ごしているの?そういう質問にはなにもしていないと答えていた。

 

これらの原点は教育方針からだった。家のことを話すのはタブーだった。

みだりに家のことを話されたくなかった親の都合だ。

どうやら親同士のよくわからない空気を大事にしていたらしい。

 

別に後ろめたいことはなかっただろうが、それでも見栄が欲しかったのだろう。

今、思い返すとまあずいぶん安いプライドだと思う。

それは地域とか周りの家族とかに関係ない親の見栄そのものだった。

 

そこで学校で子供が勝手に家の内情を話すのは都合が悪かったというわけだ。

どこのご家庭でもそうだったかは知らないが、自分は律儀に守っていた。

そして自分のことを話さないことは当然であると思っていた。

 

もう一つ、これは今でもそうなのだが自分は調子につい乗ってしまうタイプである。

反省すべきよくない性格だ。

友達が少なかった反動と、内気な性格が舞い上がりやすくしている。

 

だから自分のことを話して、盛り上がるというのが好きじゃなかった。

あとで必ず反省会をしなきゃいけないからだ。今でもこれはある。

まったく治っていないから本当にどうしようもない。

 

でも反抗期になり、家の教えが自分にとってなんの価値もないと思い直した。

いろいろ言われたのを覚えている。

子供が考えた自分のルールなんかより家のルール、大人のルールのほうが正しいと。

正しいことがわからないから教えてやっているのに反抗するのかと。

 

大切なことを反抗して学んだ。正しいかは自分で知って、判断しなきゃならないのだ。

考えを奪うことは最も悪である。考えるな、従えというのは統治者の思想だ。

都合のいい扱いをされているだけである。子供は大人にとって都合が悪い。

でもそうじゃなきゃ成長なんてないのだ。

 

そうして自分の感情をはっきりと出す訓練をした。

はじめは嘘でもやり続けると癖になって、性格になる、楽になると信じた。

その結果、今では自分のものになったと思っている。自然になった。

でもたまに、仮面を被っているような気もしている。でも本当な気もする。

 

嘘をついていたことがあったから、本当じゃないのか。

今が本当なら本当なのか。本当ってなんだろうか。

そう思いつつ、自分の今の性格が嫌いじゃない。なら、それでいいんじゃないか。

そんなふうに思っている。