無差別な優しさ
自分にとって耐えられないほどの悲しみやプレッシャーは必ず発生する。そう断言してしまうのは悲しいことだ。あくまで確率の話で起こらない可能性もある。なんとなく人生を長生きしていると一回はそういうことが起こる。じわじわと発生確率が0.0000... から 1...2...3% と上がっていくのかもしれない。
自分が本当に苦しいときに助けてほしいと願う。もしくは周囲の人から優しくされたいと願う。支えてほしいと願う。けれども、周囲の人間から蔑まれたり疎まれたりすることがある。そうなったときに自分は誰からも助けをもらえない存在だと思い、本当につらい気持ちになってしまうだろう。
そうしたとき大切なのは世の中にある無差別な優しさを感じ取ることだと思う。世の中には無差別な優しさがある。それは歌だったり、物語だったり、はたまた何気なく道端で泣いているときにくたびれたサラリーマンが温かいココアをおごってくれるようなものだ。最後のは直接的なわけだが…。
普通に生きていると無差別な優しさなんて感じないのが普通だ。だんだんそれが当然のように感じられ、自分には”自分のための優しさ”が必要なんだと思ってしまう。でもそれはちょっと間違っている。間違っているというよりも自分を追い詰めてしまう狭い思考だ。
自分をきちんと見て、自分のために優しくされたい、周囲からの信頼の中で過ごしたい。孤独は嫌だ。それを感じるのはまったくもって普通だが、それが必ず自分の周囲からでなければ、というのは少し狭い。もっと広げても、贅沢しても実はいいのだ。こうした狭い考え方の呪いはきっと社会に蔓延している病気だろう。
学校では社会的成功と周囲への溶け込み方、いわゆる空気の読み方を学ばされ、幸せとは何かを教えてもらえる。理想の周囲との関係、家族について明言しないかもしれないが、それが常識であり社会であるという刷り込みがなされる。人々のために、”自分が認識する人に対して優しく”して、”自分の認識される人から優しく”される。それが当然だと。
ある意味優しさというのは不特定多数にわたすものでもなく、受け取るものでもないという感じている人が多いんじゃないだろうか。というか気づくことすらないかもしれない。自分が不特定多数のための優しさを受け取ってはいけない、そんなことはないのだ。
誰もが理由もなくいつでも受け取っていい
ボランティアは無私で優しさを返してもらおうと思ってはいけないとよく説かれる。そうかもしれないが、辛い時に全く関係のない世界の誰かが、不特定の人に受け取って欲しいと願われた優しさを受け取ってはいけないことはないのだ。それは誰かのためであり、そして断る理由もなく受け取っていい。
不思議な事かもしれないが、特定の誰かのための優しさではない、不特定多数の優しさはいったん世間に拡散されると、誰が受け取ってもよいことになる。発信した人はそれに対してなにも注文をつけてはいけない。いけないというか、そこにはもはや発信した人の意志は付け加えられない。過去を取り消せないのと同じように、そこに存在した優しさはずっとそのままだ。
つらいとき、自分は罰せられなければならないとか資格がないという気持ちになる。これは心理学的にも自罰思考だとかそんな名前がついていた気がする。自分に罪の意識があることで、楽になっているのかはわからないが、ともかく真面目で責任感がある以上当然だと考えてしまう負のループだ。
この負のループの中で知り合いとか親しい人からの優しさを受け取るという気持ちにすらならないことが多い。自分には資格がない、責められるべきだと感じているからだ。こうなるとますます自分の殻にこもってしまい、ただただ追い詰めていくだけだ。
そうなる前に気づいてほしいのは、実は世の中まったく目には見えないかもしれないがいつかどこかでだれかが、不特定多数のために優しさを創って発信して、そこら中にばらまいているのである。それはちっとも減らないし、誰かの幸せになってほしいと願われ続けている。
だからそれを辛い時には自分のものにしてくれていいのだ。いつだってそこにあるし、減らないし、ずっと変わらない自分だけの味方というふうにしていい。それは不特定多数のものかもしれない。だからこそ自分のためのものとこっそり自分で何も言わずに持ち帰ってしまっていいのだ。そんなことをしたって世界の幸せの量はまったくもって減らないのだから。責められることでもないのだ。それは誰かが持ち帰るためにある。
ひどい言葉で言ってしまえば、不特定多数の誰かのための優しさというのは、それを受け取る誰かに勘違いしてもらうためのものだ。それはもとから勘違いしてもらうためにある。ホントは勘違いでも何でもなく、本当にそのためにあるのだけれど持っていくことに罪を感じてしまうなら勘違いということでいい。それで持っていくのに言い訳が必要なら、きっと安い。
おわりに
いつでも自分の心の中にぐっさり刺さっている言葉がある。それは日本の陳腐なドラマのキーとなる、まったく監督の狙い通りの言葉だったかもしれない。「この世界に愛はあるの?」と。それをうけて「この世界に愛は溢れている」と返す。それはドラマでやりたかったこと、伝えたかったことをすべて表していて素晴らしいなあと思っている。
ある時ずっと疑問だった音楽になぜみんなが夢中になるのか、涙がでるのか?を考えていたとき、それがわかった気がした。歌をうたうとき、それは特定の誰かのためではない。受け取る人もそれはわかっている。それでも自分を重ね合わせて泣く。その時そこに伝えたかった想いは届いている。不特定多数だったはずなのに、特定の誰かのためではないはずなのに、必要だった人に届いているというのは、それはとてもすごいことのように思えた。
世界は確かに良いものにも満ちているし、ものすごい悪意にも同じように満ちていると思う。それでも自分にとってなにを受け取るか、それを決めることで自分に人生は大きく変わるのだろう。今あるものだけではなく、目には見えないものまでたくさんのものが世界には満ちている。過去にまで遡れば埋め尽くされている以上の言葉を使わないといけないかもしれない。
だからきっと自分にとって都合のいいものを受け取って生きていくしかないのだ。だからつらいときはいつか、だれかの優しいものを受け取って生きてゆけばいいと思っている。それは素敵なことだと思う。