最近、あいまい耐性という言葉を知った。
はっきりしていないルールでもイライラしにくいか。
そのときになったら決めようという考え方に合わせられるか、そうでないか。
そういった性格を耐性という言葉で示していると思う。
別にあいまいであることを許せなくてもいい。
そういう人はとても厳格でルールをしっかり詰められるという才能でもある。
こういうあいまいさを許容しつつ前進できる人、というのを言葉で表せなかった。
それをあいまい耐性が高い人と言えるのは助かる。
些細な問題を気にせず本質的なことができる人などちょっと説明が回りくどかった。
いま現時点で放置しても問題ないものを放置することを決定できる人。
それは大事なことのように思う。些細な問題はホコリのように叩くほどでてくる。
終始細かい問題ばかりに目を向けていては大きな問題に取り組めない。
優先順位をきちんとつけて、問題を認識しつつも先送りできるのもいいと思う。
その能力に対してポジティブな単語で説明できるあいまい耐性というのはいい。
あいまい耐性について考えていると、ふとわかった。
これは白黒思考、二極化思考の正反対の言葉なのだと。
白黒思考は物事に白か黒かを絶えず判断しなければ気が済まない思考のことだ。
二極化思考というのもほぼ同義だろう。AとBにすべてが属すると考えることだ。
だが世の中は判断保留中や判断しない、白黒つけない、あいまいなままの人もいる。
白の中に黒もあるし、そのまた逆もしかりだ。世の中は単純ではなく混沌である。
現代では情報の洪水があちこちにある。SNSなどでは特に顕著だろう。
TVや電車の広告を見たりするだけでいろんな情報が飛び込んでくる。
こっちが頼まなくても街頭演説などで聞かされることもある。
そのたびに「これはいいのか、悪いのか」を無意識に処理してしまう。
意外と判断というのは疲れる。あまりにも意識しないゆえに見過ごされがちだ。
オバマ大統領は判断の重要性を説いた。なにかを判断するのは本当に疲れるという。
だから重要な判断しかしないとも。
日常で判断することを極力避けられるように生活し、本当に必要なことに注力する。
この考えはとても重要だと思う。特に現代に生きる上で大量の情報と接する上では。
今後、AIなども入り乱れたフェイクニュースが飛び交い始めるだろう。
こうなると人間の判断はよりたくさん消耗していく。
Twitterなどのタイムラインに流れる一つ一つのニュースはセンセーショナルだ。
リツイートで10000を超えるものは特に目を引くようになっている。
多くの人が注目するからこそ、洗練されていて注意を促される。
だが、そのニュースは果たして本当に自分にとって欲しいものだっただろうか?
そしてそのニュースを見てどのように感情的に反応しただろうか。
例えば日本で発砲事件が起きて幼稚園に被害が出たとしよう。
近くで見ていたという人が怪我のツイートを出して、それがリツイートされたとする。
見たときに痛みと怒りと…瞬時にいろんなものが駆け巡るだろう。
そしてつい自分もこのようなことは許せないとツイートするかもしれない。
だが、それは嘘かもしれない。そしてあなたが欲しかったものではないかもしれない。
だから気にしないこと、あいまいなままでいること。
そして反応しないことというのはある意味いいことだと思う。
世の中の物事すべてに自分がどの位置にいるかを確かめなくていい。
自分自身があいまいでいるというのも案外悪くないんじゃないだろうか。