自分は時に冷徹に見えるんだろうか。それはある意味で成功だし、失敗でもある。
仕事の上では冷徹なのは必ずしも悪いことではない。
きちんと公私を分ける態度をとること、公正であること。
それが冷徹と言われるなら問題はない。
一方で私生活で何を考えているのかわからない、伝わらないのは悲しいことだ。
伝え方が下手なのか。
その根底は自分が人と関わるのが苦手な意識が強いからかもしれない。
人と接しない方が楽だということを学んでしまっている。
もしくは、傷つくのが嫌だから避けて一人でいることに安心を覚えてしまう。
自分に期待されていることに気づかないことがある。
そして、気づいていないふりをすることがある。それは怖いからだ。
逃げたこともある。我慢したこともある。泣いたこともある。
世間から見れば本当に大したことのない些細な問題だと思う。
でも自分はいつだって苦しみながら選択してその度どちらにせよ傷ついてきた。
自分には人を思いやる資格があるのだろうか。
傷つくのが嫌なだけな自分に、人を思いやる余裕はあるのか。
どこからしら今も出血が続いていて、それに気づかないふりをしている気がする。
それを見て冷徹だと評価されるなら、きっとそれは勘違いだ。
血をダラダラ流した冷徹な人間なんていない。弱った動物なだけだ。
それはただの仮面にしか過ぎない。
そういう話を本などで読んでも、共感できない。
共感すると、自分も傷んでしまうからだ。
気づかないふりをずっと続けている気がするけれど、時折思い出させられる出来事がある。
逃げられないんだろうなと思いつつ、掃除をサボるように目を背けて生きている。
そんな感傷的なことを書いてしまう1日だった。
期待に傷つくなんて、困ってしまうだろうに。
人を困らせて、傷つけたくない。だから期待もされたくない。関わらない。
傲慢なのか、無謀なのか、幼稚なのか。ネガティブな時はネガティブになってしまう。
どうかあまり自分のことを高く見積もらないでほしい。
もちろん、自分の勘違いだったのならそれはそれでいいのだけれど。
本当はとても臆病な人間なのだ。