かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

心はわかるものじゃなく、気づくもの



空の境界の名台詞「傷は耐えるものじゃない、痛みは訴えるもの」が好きだ。
それは自分がどうこうできない、ただ事実そこにあって主張するものということ。


医学的に正しいかどうかはわからないが、傷や痛みというのは単なる信号だと思う。
ここにダメージを受けた、危険であるというサバイバルするために必要な信号。
それをもとに人間が判断してより生き延びやすくする。
だから痛みは否定するものではない。頭で考えても意味のないものだ。


心についても同じ考えができるんじゃないかと思う。
心はただ訴えられるだけだ。そこにあるだけで、信号を発するもの。
でもその形はまったくわからず、ふわふわと常に動いて変化している。


自分は世界というものが先にあって言葉が後という考えが好きだ。
言葉や理解が先にあって世界があるという考えではない。
世界とは自然なもので、ただありのままそこにある。
それに対して人が後から自分たちが認識をするために言葉を使って理解する。
禅とか仏教っぽい考え方も好きだ。
罪や常識だとか文化などは人間の都合である。それに勝手に人間は苦しめられる。


だから心というものを先に言葉で定義づけるのが好きではない。
まず心というものがあって、それで終わり。ただそこにあることをまず認める。
その上で心にはまったく善悪はない。ただ感じる臓器のようなものだ。


心は周囲の影響とか自分の考えで形を変えられて、そして信号を発する。
その信号を脳が受け取って、ぼんやりとした輪郭を自分の言葉で線をひこうとする。
そうしてだいたいの形で捉えて、輪郭だけコピーして言葉として扱う。

どこまでいっても心が発したオリジナルの信号、輪郭と言葉は違うはずだ。

 

言葉によって心を押し込めてはいけないと思う。
今日はなんとなく落ち込んでいるなと言葉で考えた時、心がそうだろうと錯覚する。
でもそれは本当に自分の心のかたちなんだろうか?


現代の科学では知識によって明確化することがとても大切なように思う。
幽霊もおばけも科学によって精緻に説明されることが喜ばれる。
同じように心も言葉などでうまく伝えたり、学問として研究されることが望まれる。


でも自分はそのようにあってほしくないと思っている。
心を科学のように、言葉できっちり線引して定義づけて曖昧さをなくすのが嫌なのだ。
それは心の自然さ、自由さ、豊かさを失うことにつながるんじゃないだろうか。


心というものを理解できないものとして許容する。
言葉では言い表しきれないものとする。
実は無意識に科学の敗北のように思えて受け入れられないのが大半じゃないだろうか。
世の中だんだん曖昧さが許されなくなっているんじゃないだろうか。


情報は瞬時に検索できるし、共有もされて一気に伝わる。
正しい情報にもアクセスしやすくなった。
機械も発達したし、様々な学問の研究によってわからないことはどんどん減っている。
だから心なんて簡単なんじゃないだろうか、と思うのも無理はない。
ましてや人間誰しも自分のことは自分の年齢分、ずっと一緒にいる。
自分の脳も信じたくなる。


だけれど、それでも矛盾したものを内包した象徴として心があるんじゃないだろうか。
人間は理性の動物だと言われるけれども、本当はただの動物だろう。
心と理性が矛盾して存在する生き物である。
心は理性には制御されない、独立した機関なんじゃないだろうか。


だから心というのは頭でわかるものではなく、
ただ心から伝わる情報で初めて気付かされるんじゃないか。
それは頭から心へ理解するためにアプローチするのではない。
心が自然に発する情報を脳が受け取って、こうなのかもなと推測することだ。
推測した情報を心には返さずに、ただ受け止める。
こうあるべきと心を制御しようとしない。


こういう考えを自分に持っていると、相手にも配慮できると思う。
つまり自分の心にもわからないのが当たり前という態度でいること。
相手の心をわかったフリしないということだ。
相手の心などわかるはずがない。
それは曖昧なもので言葉では本当は言い表せないものだ。
そして、その心が発しているものも受け取れるのは相手だけだ。


だから人と人とはわかりあえない。
そして自分の心すらも本当は自分ではわからないものだと思う。
でもそれは負けじゃない。努力不足でもない。頭が悪いからでもない。
ただ人間が動物としてただ完璧でなく、
矛盾すらしてていいという許容こそが大事なんじゃないだろうか。

無理とわかっていながらも、諦めない。
それでもどこまでも真摯に信号を受け取って、
心のかたちに近付こうと努力し続けることが自分にとっても相手と接する上でも大切だと思っている。