現実を相対的に見ること
正直なところVRが現実に引き寄せられるという考えは好きじゃない。
この考えは”現実じゃないと確かな保証がないから怖い”に行き着くんじゃないか。
VRは幻で、確かな物体、物質がなく、なにもかも保証がない世界のように思える。
だから現実という確かなもので確認したい。そう思う人がいるんじゃないか。
自分にとってVRは魔法でもすごい技術でもなく、もはや日常である。
毎日平均2-3時間はプレイする。
最近は”プレイする”よりも”VR空間で過ごす”のほうがしっくりくる。
まだ700時間位しか過ごしていないが、十分すぎるほどVRが大好きだ。
現実の世界に行っても、VRだったらどうだろう?と常にVRの視点で考えてしまう。
この考えはそのうち、VR脳と批判されるかもしれない。*1
自分はVRに確かなものはなにもなくていいと思っている。それは物質的な意味でだ。
というか現実と対比したり、現実を保証してVRを見ることが間違っていると感じる。
VRをありのまま、新しい世界と捉えるべきだと思う。
現実を基準にして見ない努力をしないといけない。
新しい基準、新しい視点をありのまま受け入れること。それが大事だと思う。
そして、VRだけの表現を発展させてほしい。
現実に縛られた表現は、現実で可能なのだから。
VRでは現実から解き放たれる。それは新しい理解を文化にもたらすと思う。
例えば本ができたように、絵が発展したように、動画によって記録がなされたように。
VRが変化させるもの
自分はVRはただの情報量が増えたメディアだと思っている。
二次元情報から三次元情報に進化しただけだ。
それは技術的に難しいかもしれないが、特別な進化ではない。
人間が文字から絵、音声、動画の記録を求めたように、VRとして三次元の情報記録を求めているだけだ。
4Kだとかハイレゾだとか、そういった着実な進歩の上にVRは存在していると思う。
たしかに技術的な意味では特別ではない。
でもその上に成り立つ文化の変化は本当に大きなものだ。
インターネットは人、まさしく肉体そのものを変化させたか?Noだ。
でも文化、時代は確実に変化し、人々の意識はずいぶんと変わった。
これは人間のOSのバージョンアップデートに等しいと思う。
人間の思考のバージョンが変わると、それ以前の人とはギャップが生まれる。
互換性を持てない人もでてくる。ジェネレーションギャップやディジタルディバイドと同じような単語も生まれるだろう。それこそIT、ICT革命である。
VRが当たり前として意識の選択肢にある人は、それ以前の人とは交流しないかもしれない。
ARとVRは個人的には違う道をたどるのではと思っている。
というかそうなってほしい。
VRをARとして、現実のシミュレータとして使うには惜しいからだ。
現状VRは普及のため現実のシミュレーションを売りにしているが、本質は違うと思う。
人類がまだ見たことのない、わかっていない領域を表現できうる技術のはずだ。
おわりに
VR技術の発展によって現実の絶対性は揺らぐと思う。
今までは現実と比較するものがなかった。*2
現実の科学技術として現実と比較できる世界ができたことは大きいと思う。
今、この現実という世界は人間の感覚器で認識される世界だ。
目、耳、鼻、触覚。そういったものがなければ、現実もVRも変わらない。
フレームレートやまだまだ現実の効果が完全再現されていないかもしれない。
だが、現実は常に完璧である必要はあるのだろうか?
脳ではいらない情報は削ぎ落とされている。
人と話しているときに窓の外の雄大な風景を最大限見る必要はあるのか?
面接中にそんなことをしている暇はない。
大切なのは目的を果たすことだ。
その目的に対してVRがどれだけ有効なのかを考えるべきだろう。
VRでは本当に必要なもの、提示される本質に現実よりも集中できるのではないか。
観光業などは空気、香り、飲食、移動のよさ…そういうのはVRにはない特別なものだと言って生き残りをかけるかもしれない。
でも観光としての本質は風景を見ることだったら、VRに本質を奪われている。
異国の人との交流だって、VRChatで生身のようにコミュニケーションできる。
これはメジャーな価値を奪われ、マイナーな価値によって生き残ろうとしている。
似たようなものは違う分野でよく見る。
本当は主戦場を奪われているのだという認識がいる。
情緒だとか風情もいいが、本質を見失うと進むべき道を迷いがちだ。
VRと相対して考えるとき、新技術と向き合って未来を考えるとき。
そういうときは、なにが本質なのかをじっくり考える必要があると思う。