かやのみ日記帳

日々感じたことをつれづれと書いています。

ARに対する自分の誤解

 

結論から言うと、Mac ProのAR動画がシェアされているのを見て自分の誤解を悟った。
それもMac Proが巨大ビルと並んでたり、餃子のタレにつけられてるのを見て。

ARとVRはよく比較される。ARは現実を拡張するもので、現実を基盤にしている。
一方VRは現実から電子空間にデータを持っていき、ユーザは電子空間に入り込む。
だいたいそんなイメージだろう。

よりビジネスに即しているのはARと言われる。
ユーザは日常を現実空間で過ごすからだ。
なのでAR技術に対して多く触れる機会があり、そしてメリットを体感しやすい。


VRは現実のデータを加工して電子空間に展開する。そのあとは自由だ。
もちろん現実なんて気にしなくていい。自由に空を漂う奇妙な空間を作ってもいい。
今日見た夢の世界を自分で再現するというのもできるだろう。


VRには常識が通用しない世界を作ることができる。
しかし一方で、表現があまりにも自由すぎる。
それに統一的なインターフェースが確立していない。
VRは一般には受け入れがたい現実からの逃避と見られがちだ。


ARを自分は当初、信じていなかった。毛嫌いしていた。
発着点が現実に寄り過ぎているからだ。現実を起点にして、現実を便利にする技術。
VRと競合するんじゃないかと思っていた。

自分はVRが大好きで現実がまったく好きじゃない。
現実に重きを置く人を好まない。満員電車も東京一極集中も好きじゃない。
顔を合わせる交渉術も、恫喝も、面接も、仕事も。
現実=信用できる、揺るがないもの、証拠のように扱われるのが。
だからARも現実信者のおもちゃとして見ていて、毛嫌いしていた。
VR技術を現実のために流用してるとすら思っていた。
まあ、ここまで過激には言いすぎだが、感情的にはこんな調子だった。


でもMac ProのARで遊ぶ人達を見て考えが変わった。
もしAppleがこれを想定して作っていたなら脱帽だ。

 これ面白いなーとひとしきり笑ったあとで、脳がフル回転し始めた。

SNS映えを狙った施策で、面白い動画がバズれば興味を持つ人も増える。
それにITに強い人たちこそターゲットな訳だ。
ITに強い人たちが積極的にテレビを見るとは思えない。
だとしたらSNSで流行らせるのは至極正しい戦略だ。


現代では情報をネットに放流する。ネットに情報がアーカイブされる。
そして、情報を共有する時にも付加情報を追加できる。
それがARの強みなのだろう。
現実よりももっと情報量の高いものを表示、意味を成すことができる。

ARはリアルタイムで現実の自分の視界を拡張できる。
現実の世界を自分の都合のいい世界にする。

現実を自分の好きなように見れる技術、それはVRにとっても同じじゃないだろうか。ARによって改変された現実を羨ましく思う人が出るかもしれない。
ああこの人と同じような世界が見たいと。
それがSNSのシェア文化によって強調され、さらに現実の改変が進む。
現実は仮想現実のベースとして味付けをされていく。

プロジェクションマッピングの技術も同じだ。
あれは現実の建物への壮大な落書きと言われていた。


VRもARも自分の見たいと思える世界を実現する技術であることに変わりないと思う。
現実ベースなのか、それとも何もない自由な空間からのスタートなのかの違いだ。

VRとARは現在の状態では完璧には交わらないと思う。
けれど、開発の根幹となる部分は似ているのかもしれない。